石鹸

残した仕事を片付けに、とはあくまでも口実。ただ住み慣れた会社の空気に触れておきたかった、というのが。

社長たる自分がおらずとも会社は何事もなく動いている、これでよかった、と。介添え役の妻に肩を借りて部屋を出て立ち止まるは。エレベーター前にて、しばし逡巡の後、手を伸ばすは古びた階段の手すり。「ここから下りよう。彼らが仕事に使っているから」とはまさに聞かせたいひと言にあるまいか。

現行とてほぼ直通なれど「専用」にあらずば納得いかぬ、なんて言いがかりは特権意識の最たるもの。新庁舎のエレベーターに並ぶ朝の行列を見れば。彼らこそ優先に、と譲れぬものか。階段こそ選ばぬにせよ、各階に止まるエレベーターとて職員らと居合わせる中に新たな出会いや気づきがあるやもしれず。

冒頭は花王石鹸の元社長、伊藤英三を描いた小説「梅は匂い人はこころ」(城山三郎著)の序章、一段一段ゆっくりと階段を下りる中に走馬灯の如く想い返される過去。創業家一門と申してもあくまでも傍流の当人が身を置くは現場。人には必ずいいところが、との信念。周囲との胸襟開いた交流が社長への道となり。

所詮は「石ころ」ですから、と自嘲するN部長に意味聞かば。いつぞやの朝刊にそんな記事が、と。事実上の上下関係。石ころ程度にしか見られていない、との職員の声。ハラスメント防止条例の制定巡る各地の動きが紹介されて。「石ころ」と呼ぶ側も呼ばれる側も十把一絡げにされては立つ瀬なく。条例作って万事が解決するか、むしろ、条例化なる事実だけが大きく取り上げられるあまりそこが目的化しては。

よく言わば御節介。御節介とてこちらが足りぬが故の相手の善意と見れば。逆に、余計なことは言わぬに限る、と無関心を決め込むに向こうは然して困らぬ。むしろ、肝心なことを教わるべき機会を逸した当人のほうが不憫だったりもして。

何もわざわざ条例作って罰せずと今やそのへんの認識はそれなりに浸透しており。言う側も言われる側もセーフだ、アウトだ、と冗談として受け流せる職場とて少なからず。そもそもに人と接するは何かしらのストレスを抱えるということであって、その中にあれこれと学んでいくものであって、私などは彼らの適応力を信じとるけど。

日々過酷な現場に身置く彼らにとって貴重な息抜き。気心知れた仲間同士で余暇を愉しむは結構。そこに何も口うるさい市議を呼ばずとも。いやいや、市議を市議とは思わぬ連中にて。こちらを「ちゃん」付けとは職員の分際で市議をバカにしとるのか、なんて。そう、ゴルフの誘い。

そんな時に限ってあいにくの雨、のみならず霧立ち込める中にグリーン上の旗すら見えず。いや、彼らがほんと上手くてね。仕事とてその位。現場では年に数回のコンペに新人含む少なからずの人数が集うとか。そんな昭和が残る現場のほうが職員間の距離が近かったりもして。

(令和6月3月30日/2844回)