垣根

ランにゴルフに興じるは勝手。されど、もうこれ以上、家の洗濯物を増やすな、との厳命に足しげく通い詰めるは深夜のコインランドリー。ボタン一つに待つこと一時間は読書に仕事に丁度よく。

清潔感あふれる店内に目を惹く一枚。不釣合どころかそのセンスや悪からぬと思うけど。軽薄、頽廃的、バブルの象徴、その官能的な作品が似合うは深夜の歓楽街の片隅、等々辛辣な評価並べど、一斉を風靡したのは事実。当時は銀行のキャッシュカードのデザインにまで。私が目にしたのは田舎から上京後、百貨店内のジグソーパズル売り場にて。ひときわ目を惹いたのがそちら。

クリスチャン・リース・ラッセン。マリン・アートなるジャンルにあって、美術ではない。いや、「アート」をつけるもおこがましく、あんなものは作品ならぬ商品であって同じ括りにされてはかなわぬ。美術的価値なんぞ。ならば、本市が誇る岡本太郎の作品や、モネとて複製ならば、いや、当時は浮世絵とて。そもそもに美術なるものは。

物議を醸した商法に安からぬ対価を払わされた方々がおられるやもしれぬ、が、その商品が稼ぎ出した額や他の作品の比にならず。そこに嫉妬心がなかったか、といわれれば。そんな商品がウケるは日本のみ、当時の潮流に踊らされた方々もいる一方、中には純粋にあの図柄が好きだった方とて。売った側の責任か買った側の責任か。

世界を知らぬ門外漢が何をかいわんや、と御叱りいただくやもしれぬ。が、あくまでも嗜好の世界、美術的価値云々以上に本人が好きならばそれで。何も相手をけなさずとも。本屋にて見つけし一冊を興味深く。「ラッセンとは何だったのか」(原田裕規著)。ちなみに当時の私が選びしパズルはノーマン・ロックウエル。貧乏学生の部屋にラッセンはさすがに。

閑話休題。好奇心旺盛な娘に、と差し出されるDVDに示される嫌悪感。受験生には全く不要と。受け取らぬ、いや、受け取らせぬは娘の母親、つまりは私の妻。折角の善意を拒むなどあるまじき、と知るもその気迫に口を挟めるはずもなく。実の姉妹にあって両者一歩も譲らず、ならば私が、とマスオ的な役柄を演じ。

実業家ジョージ・ウェスティンハウスと発明王トーマス・エジソンの世紀の対決を描いた「エジソンズ・ゲーム」。電気の送電網を巡る攻防に偉人らしからぬ意外な一面が描かれていて。決着後、思いがけず万博の会場にて再会を果たす二人。この間を比喩するに用いるは「フェンス」。自らのフェンスは隣家の垣根の役割も果たすに「ただ乗り」とのエジソンに応ずるはウエスティングハウス。問題を解決する方法は二つ。フェンスの料金を折半にすること、そして、もう一つはフェンスなど作らぬことだ、と。

ところ変わってヨガ教室。仰向けの状態で片足をまっすぐ伸ばしたまま頭上のほうに。六十度が限界の私に対して隣りなどは直角をゆうにこえ。羨望の眼差しを向けるにインストラクターが一言。人と比較をせぬこと、自らのことだけ、と。でも、待てよ、視線が卑猥だったか、なんて。

(令和6年10月5日/2881回)