過失

ズラリと並ぶ「ナツイチ」。まぁ一冊で済むことはないのだけれども贔屓のコピーライターの推薦本、二位の「資本論」を抑えて堂々の第一位はソレと知人女性より教えていただいた。勿論、オタクとしては知らぬ一冊ではないけれども全四巻の分厚さ以上に字が小さすぎて。

ジャンクリこと「ジャン・クリストフ」はベートーヴェンの生涯を描いた(とされる)。著者のロマン・ロラン渾身の力作、というかその位しか知らず。自らの生涯もそこに捧げたと申しても過言ならぬ傑作がノーベル文学賞に結びついた。今年は生誕二百五十年にてそれを題材にした公演少なくなく。あの宝塚歌劇団だって...。

介護職の将来を揺るがしかねぬとの懸念に集まりし署名は七十三万筆。ドーナツからゼリーへのおやつ変更を見逃した個人の過失が問われた裁判。罪を問われしは配膳に手を貸した准看護師の女性。言わずと知れた善意、であることはほぼ察しが付くのだけれども本来ならば介護職の役目にて「過失」と言われれば。

対価を払っとる以上は当然の権利と言わんばかりの利用者に施設側とて相手の弱みに付け込んで傲慢な対応になることも無きにしも非ず。そのへん客観的事実からは見えにくい両者の関係。御遺族と施設側には一応の示談が成立しとるだけに、この期に及んで「業務上過失致死」なる物々しい罪状を被せずとも。

いや、世の中は善人のみに非ず、悪意的に解釈すればそこを許さば悪しき前例になりかねぬ、多忙を理由に罪が許されては以後に泣き寝入りの御遺族を救えぬ、盗人にも三分の理、と。ささやかな善意が生んだ悲劇、覆る判決に窺い知れる裁判官の煩悶。被告の烙印押されし当事者とてこの間に背負いし重い十字架、贖罪の念に駆られる日々、晴れて無罪といえど胸中や複雑ではあるまいか。

臨終は安らかに自然な形で、付き添いに疲れ果てた家族、人為的な延命を望まぬ本人の意向、否が応でも看取らねばならぬ宿命に見る医師の葛藤。尊厳死、安楽死、自殺幇助、病床の当人が望む死に加担するその一点において差異無くもそれが全て同一の語彙で括れぬ意やどこに。死を望む相手、それも不治の病を抱えた相手に手を貸す行為の善悪。

筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性への殺害容疑。難病に苦しむ当事者に寄り添いたいと願う善良な医師、との美談を連想すれど、個人口座に振込まれし現金に金銭が絡む善意とは。そこには当人にしか知り得ぬ深い懊悩があったと信ずるが人の道なれど、見えぬ真相。悩み抜いた帰結、と申してみてもその深浅は個の認識に負う面が大にして、死の選択を安易に容認する風潮が助長されるはどうか。

いつぞやに読んだ曽野綾子氏の著書にベトナム戦争時の枯葉剤による双生児が一つの臓器を貰って生き延びた。そうせざるを得ない、その選択肢を取るに関係者の苦悶やいかばかりか、と確かそんな内容だったと記憶するも人の根源に迫らんとする生命倫理を巡る議論や尽きず。

与えられし天賦の才も降りかかる厄難、絶望の淵に自らの活路を見出したベートーヴェンに学ぶべく今日も演奏会に...と、勝手なこじつけですが。

(令和2年8月5日/2586回)