逆風

持て余す時間、少しでも役に立てれば、との申出の背後には日銭を稼がんとの下心。されど、既に年金生活の身にて副収入とあらば。他に依頼するよりも安上がりな上に当人のボケ防止にも、なんてことは言っちゃイカンのだけど、いかんせんこの猛暑。

道端に倒れ込んだ老人の手に私のチラシなんて醜態を晒すは「ともに」不本意。こちとて金銭を惜しむものにあらねど、日銭がかえって高くつきはせぬか、と懸念を告げれば、暑さにくたばるなど断じてありえぬ、との相手の気迫に押されて成立する夏の契約。

無頓着は目に膝、肌のみにあらず。オイル交換に訪ねし先にて見かけるは炎天下に額に汗して働く整備工。しばしの間、中で社長の相手でも、と促されて通される快適な室内。久々の談義の話題やこちら。

需要と供給の不均衡に働くはずの「見えざる手」がまさに見えず、一向に下がる気配なきガソリン価格。燃料ばかりか本体など納品まで二年とか。新車にしてかくの如き状況とあらば中古車とて。空前の売り手市場に「とりあえず」と働く心理はこちらも同じか。

年齢の枠は確保されども下からの昇級が枠の大半占めれば新参者が入る余地など。その年齢を迎えて申請するに「空き」なく、ならばいっそ0歳児からと殺到する申込。足りぬとの大合唱に急拡大を遂げた受入枠。迫る少子化、拙速が過ぎるは後に混乱を招かぬか、なんて懸念も、潜在的な需要が掘り起こされるゆえ、との声にかき消され。

あれだけ騒いだ待機児童なる言葉は死語に近く、いやいや、現にまだ希望する園に入れぬ子がいるではないか、と申しても保護者側とて一寸の譲歩の余地なくばゼロにはならぬ。出生率の低下も相まって定員割れに歯止めかからず、閉園を余儀なくされる現状を何とか、と久々に聞く現場の悲鳴は当時とは隔世の感が否めず。要望の中から数例を。

利用者本意が勝ってか希望あらば応じる、というか、そうせざるを得ぬ状況に立たされる園側。土日の開園と申してもほんの数人、いや、一人なんて日も。それでいて給食の提供、つまりは調理員まで駆り出すは贅沢が過ぎぬか、「贅沢」の文字こそ見えねども言わんとすることは斟酌されて然るべき。

次なるは痰の吸引等のハンデを有する医療的ケア児。支援法が成立、これまでは公立一園のみとされてきた受入を民営園にも広げるは以前の投稿の通り。受入に必須とされる看護師の配置。資格を有した保育士もあくまでも保育士としての人数換算とされ、そこに便乗せんと受入だけ押し付けられるは腑に落ちぬ、とはもっともな話。

更に一つ。保育園にして定員割れならばこちらは尚更。当時は「保育に欠ける」子の受入とされた時代。三歳までは親が育てて当然との風潮に向こうを選択するはよほど家庭的な事情が、なんて偏見もどこへやら。0歳児から、が主流を占め、0歳児からの青田買いとて苦境に立たされる中にあって、3歳児以降はあくまでも保護者の選択、などというけれども下駄の高さがあまりにも違い過ぎて。

あれだけの追い風も変わる風向き。逆風の時にこそ問われる真価。淘汰は自然の摂理、などと涼しい顔をしていられるものにないと思うけど。

(令和4年7月25日/2724回)