良縁

結果はともかく挑む機会は平等に。経済的な理由により進路が限定されがちな生徒たちを救うべく私塾から講師を招いて臨時の授業を催すとか。幸か不幸か都立校の話。過去問の分析に傾向と対策、こと受験に関してはそちらに一日の長ありて。教師自らそちらに学び、切磋琢磨する中に全体的な学力の向上を図らん、との意図のありやなしや。

が、昨今なんぞは年度末に目標に届かぬこととて。受験が如きは基礎が固まってはじめてコツを磨かんとするもの。外から講師を招聘してまずは基礎学力を、となると、そりゃそもそもに教師自ら負うべき役目であって、そちらに依存するあまり本来の役目が見失われはせぬか、と。理由はどうであれ勝手よく知る教え子なのだから自らの手で。となるべきも働き方改革の名のもとに許されぬ残業。が、背景にあるとすれば首をかしげてみたくもなり。

何も外部に頼らずと自ら休日返上にて行うその授業が好評と聞いた。それも教え子のみならず、広く校内に希望者を募るばかりか、練習と重なる吹奏楽部の部員たちの為にもう一回と一日に都合二回。そんな意欲ある先生の在籍や都立ならぬ県立、そう、つまりはわが県内の話。そこに残業代などあるはずになく、んな「滅私」の姿勢が報われる日が来ることを願わずにはおられず。

いや、何よりも子供たちの為に費やされる時間は取り戻せぬ。既に青春終えた身ならば然して気にはとめぬも若き独身と聞いて。この御時世に珍しき好漢、せめてもの償いに良縁を、との老婆心は御節介。休日に英語の先生と並んで通校する姿が似合いのカップルと生徒たちの話題とか。教え子の成長を見るは教師の生き甲斐。むしろ金銭的な対価以上に本人の精神的な充実感が得られているのであれば何も咎める必要など。

部活動然り、昨今なんぞはそんな献身的な行為すら否定されること少なからず。時間外に働いた以上、対価が支払われて当然。「いらぬ」と言われても他への示しがつかぬ。というか、そんな善意が蔓延してはいつか無償労働が強要されることに繋がりかねぬ、などと訳の分からぬ理屈が持ち出されて。

いや、中には未だ「無償は当然」との価値観を押し付けんとする時代錯誤の御仁もいるやもしれぬ。が、教師の鏡と知れども真似は出来ぬ、というのが大方の見方か。当人とてあくまでも「任意」、何ら見返りを求めんのだから放置しておいてくれれば、と。不思議とそんな先生に限って人気があったりもするもので、そりゃ元来の性格がそうさせるものなれど、一部にはそうは見えぬらしく。

自らの評価を上げんとして、そんなに善人ぶられては相対的にこちらの評価が下がってしまうではないか。ましてや、規定外の授業とあらば出席かなわぬ生徒もある中に学力格差が助長されかねず。認めるべきにあらず、なんて。そのへんのセンスは一流、何も他人様の足を引っ張らずともその才能をもそっと別なほうに向けてみては、と思うのだが。

(令和5年1月15日/2758回)