哲学
未だ道半ばにして謙虚さ忘れず、まずは相手の助言に従い、反駁せぬままに行き着いたのが「いま」。当のSさんとてそこに口を挟みし一人なれど、久々のラウンドに「そこは直したほうがいい。ゴルフに絶対はないが、そこだけは絶対。教えた奴はヘボ」などというけれども、教えた本人はいつも一緒にラウンドしとるI君な訳で。
直すべきか否か、I君に再度聞かば、「それは昭和の理論、適当に受け流すが利口」と。あちらが立てばこちらが立たず。いづれも相手の善意なだけに。善人にゴルフは不向き、か。
ぼちぼちコースにも慣れてきたし、そろそろ、とI君。ミスは自らの未熟さゆえで、目下、気になりしは外見位なもの。決して安からぬ買物と知れど中古とて厭わぬし、何よりも折角の申出に買物に付き添って下さる相手の厚意こそ金銭では買えぬ。
そんな同氏とともに訪ねるは某所にて工房を営むHさん。口数少なく寡黙なHさんは知る人ぞ知る道具の職人、だそうで。二階の隠れ部屋にて次々と渡されるクラブに球を打ち続けること三十分。緻密な分析の結果、下された結論や。
打つたびに当たる位置が微妙に。極端な話、右に曲がるならば右に曲がるなりにクラブを合わせることは可能。が、都度行方知れずの荒れ球の修正は出来ぬ。もそっと明確な目的意識を持ってクラブに向き合うべし、つまり推奨のクラブはない、と残酷なひと言。
おい、こちとて、折角、その気にさせられ、いや、「なって」、金銭に糸目を付けぬ、と申しとるに売れぬとはなにごと。そもそもに毎度寸分狂わず真芯に当たらば今頃は。
売る商品がない、など言わずと「それなり」のモノでも提供されれば、名人推奨の一本とばかり喜び勇んで練習に励むばかりか、仮にスコアが改善せずとも腕が足りぬと申しておけば。信じることこそ思わぬ成果を生み出すことを御存じか。まぁその客に媚びぬ姿勢が逆に親切と言われればそうかもしれぬ。思い知らされる厳しい現実。
いや、そこまでは想定内。やはり、欠かせぬはセカンドオピニオン、とばかり次に向かうは量販店。店内とて広々として客の数も。こちらは最新鋭の計測器にちゃんと飛距離から弾道まで再現されて。何本か試打する中にあって、ほぼ全てまっすぐに飛ぶクラブに遭遇。まさにこれこそが求めていたものにあるまいか。
何故にこれほどまでに、と聞くに、真芯にあらずともクラブが微調整をしてくれるのだそうで、好スコア間違いない、と店長。いや、待てよ、そこに甘えて真のゴルファーが目指せるか。道具にどこまで依存すべきか、問われる哲学。
さて、今年も防災の日を前に総合防災訓練の通知が届いた。備えあれば憂いなし。備蓄にせよ避難所の運営にせよ、十分か、と問われれば、「足りぬ」というのが人の心理にて。役所の対応が不十分と騒ぎ立てるにこれほど都合のいいものなく。
公助の比重を高めんとするに自助の意識が薄らぐはスコアをクラブに求めるに同じ。いいクラブは決して安くないから。防災とて問われるは。
(令和5年8月15日/2799回)
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