修行

誰に聞いたか、夏といえば、シチリアの白。されど、銘柄は一つにあらず。そこはMさん推奨の一本に当人の解説を添えて。イタリアワインといえばその人にて久々に店舗訪ねるに姿なく、消息を聞かば。長崎の離島リゾートホテルに職を得て、ソムリエとして、否、イカ釣りに夢中とか。よもや永住、なんてことはあるまい、と思うけど。

まぁ呑めよ、その一言が命取り。とは運転に限った話になく。途中、後悔の念に苛まれること往々。それでも完走を果たすはそれも見越した練習量、いや、これまでの涙ぐましい努力を無にする訳にはいかぬ、との執念。幸いにもまだかろうじて「多少」の無理が利くから。

夏山に見かける修行僧、勿論、こちらが追い越す側なれど、あの坂道に読経の声が乱れぬとは。修験者の聖地、大山は別名、雨降山といわれ。それまでの青空も一変、激しい雷雨に見舞われての下山。向こうとて何もこちらを立ち往生させたくて風雨を起こすものになく、たまたまそんな条件に遭遇しただけの話。世に抗えぬものもあると悟らされるはまさにいい「修行」となり。

さて、本題。この間、市議会に寄せられるはスーパーの出店を巡る陳情。既に飽和に近い気がせんでもないが、そこは自由競争の世界、条件整わば出店を規制できるものになく。それまでの長閑な住環境が脅かされかねぬ、との懸念に。大店法をタテに事業者に対して近隣への配慮を求める内容。出店そのものの反対になくば争点は絞られ。

まずは渋滞対策。出入口の自主規制に事業者側の譲歩が窺い知れるも拭えぬ不安。ならば、どの程度か、と問われるに、蓋開けてみねば、というのが偽らざる内心なれど、それで済む話になく。

そんな不安はこちらも同じ。歩行者専用通路に面して設けられた駐輪場。あくまでも「歩行」が前提のはずが、順守される保証なく、「あえて」設けるに接触事故を誘発しかねず、何もそこにあらずとも、との懸念。そして、通学路上とあらば工事期間中を含む子供たちの安全対策はくれぐれも怠りなく、と。

許認可権を有するは行政。市議会宛の陳情が彼らの本気度を高めたことは紛れもない事実なれど、肝心の事業者とて好んで近隣との軋轢を望むものになく。本来ならばそれなりの着地点が見出されるはずも、相手が利益至上主義の権化だったり、本市の担当が機微に疎いカタブツだったりすると。

で、迎える当日。市議側とてここぞとばかりに凄みを効かせて鋭く斬りこんでみても背後に相手があっての話。たじろぐ市の職員に悦に入るは当人位なもの。事態の進展も図れぬばかりか、歯切れ悪き答弁に傍聴者の不安もかえって。とすると、その前段階で何をすべきか。

陳情側の不安を払拭することに主眼を置かば自ずと果たすべき役割が見えてくるのだけど。

(令和5年8月25日/2801回)