鴛鴦

おしどり、と読み。

そう、昨今は位置情報に高低差、心拍数など高機能のスマートウォッチが流行なれど、こちとら門限に必須な時刻さえ分かれば、ということで廉価なデジタルウォッチが愛用品。

紛失に気付くは帰路の途中、記憶辿るに山荘に置き忘れの可能性高く。既に十年、新品にすべきか否か。問い合わせるにちゃんと残されており。着払いとはいえど、丁寧な梱包に相手の気遣い見えて。送り主、雷鳥荘。

そもそもに健康の為などと始めたつもりが、十が二十に、二十が四十に、日に四十キロ走って身体にいいはずなく。目下、隠居後の奉公というか川崎競馬組合議会なるものの副議長を仰せつかっており。また、いづれうんちくというかそのへんを語るときもあると思うけど。

天高く馬肥ゆる秋にあって、しばし放牧と決め込むも、本当に食って寝ての日々では、ということで。コース途中に見かけるは、「本日限り、ひやおろし三種二百円」の看板。どう見ても「ひやおろし」ならぬ「ひやかし」にしか見えぬ珍客も笑顔でもてなして下さるは美人店主。

ぐい吞みに適量、いや、多めに注いでいただくに割得感は抜群。相手が真心こめて作りし一品には敬意払われて然るべき。

「そや、わては女やからな。男衆とちごうて、女は生きることしか考えんのや」。その声には迫力があった。

そこを描くが当人の魅力。城山三郎氏に稀代の相場師を描いた作品あって、その一幕に登場するは絵画の話。

んな絵に五千円も出すなんぞあほちゃうか。信用筋からの入手にて「本物」と抗弁する主人公に、それだけの「におい」はせぬ、とオンナ。帰宅後にその絵を眺める表情はどことなく不安げでもあり、その理由を告げるに妻君がひと言。

気に入って買ってきたのだから真贋など問うべきに非ず、自ら好きな絵としてたのしんで居れば十分ではないか、と。そう、億は下らぬ巨匠の絵とて存命中はさほど。同じ絵の価値が一夜にして一変、なんて事例には事欠かず。

作品として仕上げたつもりが、そんなものが描かれていては、無地ならばまだしも、と店主。売らんとして、反物そのものの価値以下と知るに落胆隠せぬ父の姿が忘れられぬ、と。んな逆境にもめげずに、その道で名を馳せし当人が晩年に好んで描くは鴛鴦。

明治生まれの父君の遺品。言葉では言い尽くせぬ、いつぞやの御礼にて貰い受けてくれぬか、との依頼。御礼といわれる筋合いのものになく、いや、相手の依頼を無碍に断るも相手に失礼。仮にそこは譲るにせよ、美酒や銘菓ならぬ一人の画家が精魂込めて世に送り出した作品とあらば粗末に出来ず。

競売にて現金化などと野暮なことはせぬにせよ、押入れのままでは。やはり人の目に触れてこそ絵も本望にあるまいか。鴛鴦、描かれるに縁起よき逸品と知れど、それだけの大きな絵を飾るに。押し問答に譲らぬ相手。その後は保証せぬことを条件に貰い受けてみたものの、さて。

(令和5年9月15日/2805回)