鹿角

自らの権限において来賓に加えておくゆえ、との申出に都合つけども着替え叶わず。喪服に黒ネクタイが大半を占める中にあって目立つ平服。受付のSさん、自らのネクタイを私の為に。戦没者追悼の慰霊祭にて献花を終えた。

オクトバー後の放牧、とならず。師走のトレイルに向けて。丹沢に大山、とりわけ、大山ならば奥社までの往復に半日いらず。挑まんとして躊躇する理由や。あくまでも北国の話、などと侮るなかれ。隣市でも目撃、なんて報道を目にすれば。その凶暴性は幼き頃に読んだ週刊少年ジャンプの漫画に知るところなれど未だ遭遇の体験なく。

巷間いわれる対処術の一つに、絶対に背を向けてはならぬ、とあれどもがっぷり四つで勝てそうな相手になく。かつて知床にて入手したアイヌの鹿角を印籠代わりに見せても許してくれそうもないし。突然の遭遇こそ危険。鈴を付ければ、というけれども空腹とあらば、むしろ格好の獲物となりえぬか。あとは「運」次第、かも。

さて、本題。走りながら考える、とされた制度も創設から二十年。役所にあっても中途退職の理由に親の介護少なからず。当事者を抱えし御家族の苦労は察するに余りあれども。介護現場より届くは一通の手紙。

施設に入らばいたれり尽くせり、かえって老化は増すばかり。そう、施設はあくまでも次善の策となるべきはずが、猫も杓子も施設、施設と。かたや、従事するケアマネにヘルパー、介護職のなり手不足は深刻。俎上に上がる賃上げとて多少の呼び水になるやもしれぬが、あの壮絶な現場を目の当たりにすれば。

いやいや、何も好んで施設を選択するものにあらず、その為の保険料であって当然の権利を行使して何が悪い、と言われれば確かにその通り。ならば、相応の負担を求めんとするに反応はどうか。とすると、自らのことは自らで、との価値観の浸透こそが目指す道。やはり自宅における介護こそ励行されるべきであって、ひいては多世代同居への減税、優遇措置を図れぬものか、と。施設か自宅かを巡る議論は介護に限らず。

そもそもに役人側とて入りたくとも入れぬ方々の為に施設の整備を進めることこそが役目とされ。困っとる人を前に自宅で介護を、などとは。施設への依存度を減らさんと抑制策を講じんとするは二足の草鞋を履くようなもので、アクセルとブレーキは同時に踏めぬ、ということらしく。

減税か給付か、政策誘導的な呼び水に、との意図こそ否定はせぬ。が、給付は兎も角も税は聖域にてあちらの抵抗は必至。仮に税を選択したとしても実際にその状況を捕捉し結びつけんとする手間は煩雑な上に軽からず。そればかりか、護送船団の中にあってあえて火中の栗は拾わずとも、なんて。

いや、それすらも克服して晴れて減税が実現したとしても、ならば、その為に自宅における介護を選ぶかといわれれば。

(令和5年11月16日/2817回)