赤穂

大晦日、といえば。紅白か格闘技か。さながら落語ならば芝浜あたりか。

過去に内蔵助を演ずるは一人ならず、誰それに勝るものなし、俵星玄蕃のどこぞが見どころ、などといつぞやの忘年会の席にて。別れて数日後に届くDVD。しっかりと主演も。

討入り前に訪ねる先やその人。面会叶うも間者の存在に気づきし内蔵助。仇打ちの決意を伏して隠居の暇乞いと偽るに不忠者となじられ。最後に一つ、亡き主君の仏前にて焼香を、との懇願も断じて許さぬ、と御前。

決行に集うは四十六士。血判に名を連ねし数に足りぬ。もしや、と逸る同士を宥める内蔵助。落ちぶれてこそ人の情けが身に染みて。それぞれの事情があるのだ、と。

時代劇こそが最高の教材と信じて疑わず。たとえそこに不適切な一幕があったとしても、あとは当人の判断に委ねればよさそうなものなれど。過保護は子の為ならず、害毒と遠ざけるはかえって。

自由だ平等だ、などと言葉で教えても、あくまでも机上の話に過ぎず。やはり舞台劇とか物語、本の中に人の一生を学ぶとか。立ちはだかる現実、たくましく生きることこそ人生の目標であって、逆境を克服せんとするに昭和の価値観が一助となったはずなれど、今やほめて伸ばす時代、余計なものには目を伏せて。

政治こそ世の縮図。切っても切れぬ縁は今日に限った話になく。不記載なる一事を以て裏金とするならばヘソクリに同じ。集金力が派閥内の地位を左右するとは残念な話なれど、原資になりしは税金にあらず、少なくとも表向きは向こうから寄進すると申出とる以上。

そこに生じるしがらみこそ政事を歪める元凶と知れど、ならば一切を断つなど。自由と平等を求めるに同じ。この世界に住む以上、記すに記せぬことも。それを言わせずと察するのが人の情。それを一人だけ善人ぶっとるヤツなど社会的な地位は兎も角も人としてどうか。

見逃さば世の秩序が保たれぬ、世に示しがつかぬ、と「上」が決断したのだろうけど、彼らとて人の子。司法取引を信じて疑わぬ一人にてあれだけの大捕物の前には必ずや予兆というか伏線があって、そこに見えぬ攻防があったはず。

誰しもが大なり小なり有する中にあって一派閥に矮小化された背景には自らに降りかかる火の粉を振り払わんと同士を売りし卑怯者はおらぬか云々と。御政道を正す、は結構。されど、刃傷はいけませぬ、などと短絡的に結論づけるから世はおかしな方向に向かうのであって。

それがあるべき理想と知れど、そこにもがき苦しむ中にこそ人としての成長があり。いや、何も裏金の正当性を説くものにあらず、何もそこまで、どことなく学校内の陰湿なイジメに似ておらぬか、と。公共の電波にくだらん解説を流す位ならば忠臣蔵、いや、刃傷が好かぬというならば寅さんとて。

よいお年を。

(令和5年12月31日/2826回)