軍曹

静脈ならぬ動脈、それも「大」付かば死因に聞くこと往々。ちょうど一年前、倒れて昏睡のまま生死の淵をさまようこと数日。九死に一生、奇跡の生還を遂げた理由や。

関係や知らぬ、が、病床にて手を握るは看護婦。若い女性に寄り添われ往生を遂げるも一興。もはやこれまで、と遠のく意識に届くは必死に呼びかけるその声、いや握力に。あくまでも本人談にて。人を成長させるは、倒産、投獄、大病、とされ。

話せぬ言葉。親子でさえも意思の疎通おぼつかず。長子相続こそが大権現様の遺訓とされど。障害有する嫡男に家督を継がせるべきか否か。が、仮にその言葉を解す家臣いれば。いや、どう見ても奇声にしか聞こえぬ、それが上様の言葉などと誰が信じるか。

彼を介さねば将軍とは話が出来ぬとあらば目上のたんこぶ、どころかその座とて危うく。容認など断じて出来ぬ、排除せんとの老中の執念やすさまじく。決して目や耳になってはならぬ、あくまでも口に徹せよ、と幼少に教えるは大岡越前守なれど、口に徹するとはかくも。数々の屈辱に耐えに耐え。

もう一度、生まれてもこの身体でよい、そなたに会えるならば、と時の将軍に言わしめた忠臣。史実の考察は専門家に譲るにせよ、九代将軍、家重を描く時代小説、村木嵐著「まいまいつぶろ」。ぜひ一読を、と支援者から。

小才は縁に出合って縁に気づかず、中才は縁に気づいて縁を生かさず、大才は袖すり合った縁をも生かす、とは、かの剣豪の言葉とされ。いつぞやの便宜の見返りに、それは無報酬で一向にかまわんのだけれども。

そう、少なくとも「日に百球」の途中経過を、と心配いただくに無碍に断れず。夜の会合までの間でよければと。いや、あくまでも「ふむ」と相槌を打っただけの話、課されたなどとは。いや、そのへんも見透かしていたやもしれぬが。今日のメニューと示されるは三百球。一万発打たば「見える」と。遊技場の出玉じゃあるまいに。「見えず」とも。

あちらの言い分としては、飛距離を稼ぐに欠かせぬは下半身。それだけ立派な身体あらばもっと、という親心らしくも。こちとら当時の部活動とて所詮は「補欠」であるし、あくまでも趣味の延長、前に飛びさえすれば。そこの意識に著しい乖離あり。

いや、百球をフツーに打つだけでも十分にしんどいというに。軍曹の監視下の下、やれ肩が云々だ、とか球の位置がズレとるとか、あれこれに意識を向けるに脳とて。日々使わぬ部位を動かすは有益と知れど、さすがにそこまで酷使せずと。

いや、サボるは人の性根のみならず、筋肉とて同じ。ゆえに無意識に身体が動くまで覚えさせねばならぬ、そんな理屈は分からんでもないのだけれども何せ後に大事な予定が。打ち終わらねば帰れぬ雰囲気。拙速に振らんとするに叱られるし。遅刻ばかりかヘトヘトのまま。三百球よりもフルマラソンのほうがよほど。

(令和6月2月10日/2834回)