鶯宿

公衆の面前、それも少年野球の開会式とあらば尚更のこと、既に整列しとる中にそんな冴えぬ顔と気だるそうな足取りでやって来られてはかえって評価を落としかねず。身から出たサビとはいえ、んな中に身を置いとるから運気が上向かんのであって、たまには自然の中に身を任せて。それにしてもペッカーズの選手宣誓はよかったナ。
収穫が最盛期を迎えるに人手が足りぬ、と聞いて今年も。たわわに実りし梅の木を相手に。一つ一つ丁寧に収穫していくのだけれどもこれが本当に無心になれるもので。枝とて四方に伸びるよう手を施せども思い通りにならぬが自然界。地面から届かぬ上のほうにも。
脚立が倒れぬよう足場を固めるまでは誰しもが。脚立の上から手を伸ばさんとするにあとほんの少し、そのひと伸びが命取り。ドスンなんて。されど、土の上に大の字でたわわに実りし梅の木と青空を眺めるなんて経験はなかなか。
足りぬ手を補わんと求人に依頼すれども高所を伴うに難色を示されたと園主。まさにそれこそが労働なるもので、身体を酷使するに対価を貰うは当然。されど、百キロのレース然り、酷使する方が対価を払うにやはりそれだけの価値があると見るのが。今回の品種は鶯の宿と書いて「鶯宿(おうしゅく)」というのだそうで。
そう、障害者施設の施設長Nさんが乗り合わせた路線バスにて聞こえてしまった隣りの会話。派遣会社の担当と思しき人物に求人に応募した中年の女性のやりとり。
電話が鳴ったら見に行けばいいだけ、あとは応接で寛いでいれば、との説明に喜びを隠せぬ相手。会話の内容から察するに同業者らしく。事業名の通りあくまでも「預かる」ことこそ本分であって、それとてちゃんと使命を果たしとることには違いないのだけれども。果たしてそれでいいのだろうか、との素朴な疑問。
利用者に一方的に施設があてがわれた措置の時代から今や利用者の「選択」の時代。Nさんの施設が高い人気を誇る理由の一つや日課とされる近所の散歩。それとて義務にあらず、むしろ、施設側には余計な仕事というか。されど、当事者にしてみれば。
おおはしゃぎの中に脱走、というか行方不明になる子もいたりして。過去には警察沙汰にも、とNさん。が、そこは保護者も慣れたもので。そんな新たな刺激が症状の改善、子の成長に繋がることは科学的に証明されているとか。事実、施設側のそんな献身的な姿勢に選ばれる方が大半を占めるとか。
歯磨きすら出来ぬ子、それが障害児ともなれば尚更。歯の不衛生は万病の元と知れど、押しつけるに反発は必至、やらせずとそのように仕向ける、というか彼らの精神構造を理解した上で自発的に行えるよう。いや、実際にそうなるのだそうで。
それこそがやりがい、と施設長。当事者に「寄り添う」などと言わば響きこそいいけれどもその解釈や様々。貰える対価は同じなれど、やはり利用者に喜ばれてこそ。それこそが「福祉」だと思うけど。
(令和6年6月5日/2857回)