糸魚川

猫に小判、豚に真珠、つまりは価値が全く分かっていないってことは相手もよくよく承知なのだが、キリマンジャロの社長に御指名をいただいて人気歌手K氏のライブを御一緒することになった。ペアチケット2組を入手したものの、当人の細君が亭主よりも自らの親友を隣席に選んだことがそもそもの発端。
単に空席を埋めるだけであれば候補者はわんさかいるらしいのだが、私が好都合だとか。元来、流行歌というかJPOPなんぞとは無縁の日々、ライブなんてのは無論初体験なんだけど細君の手前「すわりがいい」との理由らしく。正規の料金で結構などといわれてもそれすらもったいない気がして。「普通に」いい曲だとは思うのだが、どうもノリについていけず...やはり性に合わなかった。
さて、年の瀬に一年を振り返ってみれば、任期途中の正副団長の交代(その一人が私)にHセンセイの辞職、Oセンセイの入院、そして、私のコピペ疑惑と続く厄難。そりゃあくまでも気のせいってもんなんだろうけど、ここはひとつ厄払いでも...と帰省途中に下車して善光寺に。そんな時「だけ」ものの「ついで」では動機が不純すぎて不信心者の御利益などたかが知れている訳で。されど、まさにその「ついで」に訪ねた東山魁夷画伯の美術館は見る価値十分。
今年の海外視察の際に訪ねた大使館に飾られた画伯の絵の意味が気になっていたんだけどようやく腑に落ちた。独特の画風にて大自然を描いた同氏の作品をじっくりと鑑賞すれば、その一枚と車窓からの景色が偶然にも重なった。芸術といえば木は生き物にてその癖を見抜かねば形が崩れる。一心不乱にノミを振るい続けた仏師運慶の小説を読んで以来、そちらには目が無いのだが、善光寺の仁王像は近代の巨匠、高村光雲の作だそうで。
そう、仁王像といえば怖くなくては意味がない訳で幼少時の記憶に残るのが、おらが郷里の実家近くの国分寺山門に安置された仁王像。で、その境内には芭蕉翁が詠んだとされる句碑が残る。「芭蕉」「日本海」といえば「荒海や~」で有名な「荒海や佐渡によこたふ天河」。
良寛生誕の出雲崎で詠んだのが通説とされてきたものの、おらが郷里の句碑に刻まれたものは「文月の六日も常の夜に似ず」であるから六日に直江津で翌七日に出雲崎となれば行路が逆になる訳でやはりわが郷里もしくはその次の目的地までに詠んだとするのが理にかなうような...。まぁ御当地以外の方々にとってはどこで詠まれたかなどはどうでもいいことかもしれんけど観光には「ゆかり」が大事だとか。
で、次なる宿場で詠んだ句が「一つ家に遊女も寝たり萩と月」。何やら意味深な色恋モノだが、私の母の実家がそちらにて今も従兄弟が事業を営む。直接的な被害こそ負わなかったものの落胆の色隠せずとかで...。不注意がもたらした災難の代償はあまりにも大きすぎた。そんな被災地には今年も冬将軍がやってくる。
予報によれば関東地方は正月三日とも晴天に恵まれ御来光が拝めそうだけど、日本海側はあいもかわらず悪天候が続く。冬の天気は太平洋側と逆にて正月の晴天などは十年に一度か。それだけに余計に御利益がありそうなもんだけど、日本海は日の出よりも日の入、日本海に沈む夕日はものスゴくきれいなんだよナ。よい御年を。
(平成28年12月31日/2315回)