取捨選択

前半戦のヤマ、代表質問を終えた。私の担当原稿は十年ぶりの改定が予定されている「緑の基本計画」。落葉の清掃に悩む沿道、根の隆起による歩道補修を求める陳情は少なくなく。根元からの伐採とてあれだけ年輪を重ねられては...。潤いある景観を目指した街路樹が逆の結果を招く現状の認識と今後の対応を聞いた。
また、俄かに脚光を浴び始めた森林環境税。国に頼らずとも隣市のみどり税が如く自治体が独自に財源を確保する取組も散見される中、おらが市では緑地保全を目的に設立されたトラスト団体が自らの基金寄贈を市に求めるも反応が鈍いとか。有無を言わせず徴収される税以上にまずは市民の善意を形に変える仕組みこそ創設されるべきではないのかと一問。
また、この間、全公園の七割以上で管理運営協議会又は公園緑地愛護会が設立されたものの、未だ手つかずの公園の扱いや賑わいを創出する場としての公園利用が模索されるも未だ規制多く。聞けば市長のマニフェストには「わくわく感」ある公園を目指すなんてのがあるそうで、そんな勿体ぶった、否、奥歯に物が挟まったような言い回しをせずとも規制を緩和すると言えばいいではないかと、以上、三問。
役職柄、全ての原稿に目を通すのだけれども市長選後はじめての定例会にて示された所信表明と市政方針。新たな計画には「多様化、増大化する市民ニーズへの対応」という表現が随所に見られるのだそうで、あれこれと打上花火を上げるのは結構だけれども財源やいかにというあたりが肝らしく。それを理由に無尽蔵な支出が許されるものではなく、今、求められるはニーズへの対応以上に施策の取捨選択ではないかとの一文を盛り込んだ。
「一生の目的は一巻も多く読み一枚も多く著すにあれば只々此病の為に日月を縮められ其目的を達し得ざるを憂ふるのみ」とは正岡子規の著書「読書弁」の一節。晩年、病床に伏せる子規の心情の吐露。一日一話が三日に一話、で、四日一(よっかいち)、五十日(ごとおび)と、ブログの更新すらままならぬ状態にて元来の多読家もそんな暇すらなく、厳選に厳選を重ねてと本屋を物色すれば一冊の本が目に付いた。
それはあくまでも二の次のはずなんだけど、もっといい写真を...という欲求は何も私に限った話ではない(はず)も、そもそもの被写体が被写体なのだからそれ以上の写真があるまいにと思わんでもなく。撮影時なんぞはやれ顎をひけだ口元がどうだ、挙句には眼力が足りんとか。その域にでも達すれば作れる表情もこちとら役者ぢゃないからナ。ありのままの表情にこそ納得の一枚があるのではないかと。
以降、どれほど機器の性能が向上しようとも誰も登れぬ断崖絶壁の頂に燦然として他の追随を許さぬ巨匠二人。映画が黒澤ならば、写真はこの人。その一枚に言葉は要らぬ。氏曰く「撮らせよう、撮ろうという、いわば自由契約の関係で出来るのが肖像写真。だから撮られるほうは初めから他所行き。しかし、撮られている人に、撮られていることを全然意識させない肖像写真こそ」と。
「土門拳の写真撮影入門」(都築政昭著)を読んだ。その道の人には必携とされる名著ながら同氏の生涯に焦点をあてた自叙伝的一冊に教わることが多かった。
(平成29年12月10日/2398回)