田園
中間試験を終えた、と聞いた。まずは英単語、「豚」といえば...。その英訳欄に記した回答は「ポーク」だったと。そう、子供なのだからその位の食い意地、いや、遊び心がなきゃいかん。
塾のみならず早朝から叩き起こされて机に向き合わされるは見るに忍びず。どれほど安全運転を心がけても貰い事故はあるもので、腹痛然り準備万全で迎えし当日に本領出せぬも天運、その一事を以て人生が左右されるもんではないのだから適当に...と鬼の居ぬ間に囁いて家を出た。決して猛勉は否定されるもんではないけれど、肝心なことを置き忘れたまま高学歴を背負っちまうからね、そのへんを戦後教育の重大な「手落ち」と評しておられて。やっと読了したのだけれどもその一節に「批評的態度について」と見かけた。
議長といえど一存では通らぬ、立場上、他に諮らねばならぬ事案も少なくなく。そこには私の名を借りた役所の都合もある訳でそこを見透かしての物言いも少なくない。「真に意味があるのか」「詳細が見えかねる」等々と御託が並ぶのだけれども、その大半はやむなき事情か善意によるもので役職を楯に強行突破もアリなれど後の報復は必至にて負の連鎖に繋がりかねず。
所詮、名を貸したに過ぎんから通らずと「個人的に」何ら困るものではなく、「ならば...」と稚拙じみた取下をチラつかせれば、「いやいや、異議を唱えとる訳では...」と。そこにはすんなり可としては自らの立場を損ねかねるとの下心が見え隠れする訳で、そりゃそれで分からんでもないのだけれども時にその発言が相手の意欲を削ぎかねぬことも無いとは限らず、そのへんの機微含む高次の方程式が解けねば中間試験の成績も伸びんのではないか。
昨今は巷に批評家、評論家然とした御仁(往々にして勝手に名乗っていたりもするのだけれども)少なからず。元来、真の批判なるものはたとえ対極的な見地のものからであろうとも「ふ~む、此奴なかなか言うな」と相手を揺さぶるというか呻らせる位のものでなくては本物と言えず、そうならずともどことなく相手を諭す親心というか包容力を備えたものが理想なのだけれどもどうもそのへんが付いておらぬ気がしてならぬ。今や聞いておればその大半が自己陶酔というか、本人は優越感に浸るは勝手なれど、それが当人の評判を下げとるに気付かぬは何とも不憫。
で、秘伝の書には何とあるか。その表現を借りれば「これ(批評)を否定してはいわゆる味噌も糞も一しょくたになってしまう一面もある」と意義を認めた上で、「批評的態度に留まっている間は、その人がまだ真に人生の苦労をしていない何よりの証拠。食物の偏食をなおすには、かれこれ理屈を言うよりも、いわゆる実物教訓で、ただひもじゅうさせる一手あるのみ。人に教えるということは...」と教師の心得を説きつつ、「相手の立場を正しく察する豊かな情操の啓培が先行しなければならないのに戦後教育はその土台を閑却して一挙に批判力の養成が可能と考えたところにひとつの重大な手落ちがあった」と結ぶ。
かくいう私が最も批評的なのだけれども豊かな情操を育むべく、久々の演奏会にてベートーヴェンの交響曲第六番「田園」を聴いた。
(令和元年6月30日/2508回)
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