車座

意思決定に必要、というか正確には必要な「要員」とのことらしく。それが議場内における隣との間隔であったり、陽性者が発生した際の対応をどうするか、と。理詰めの将棋ぢゃあるまいに先を読むと申しても科学的な根拠なく、割れる互いの言い分。賽の目以上の想定数にゼロリスクはありえぬのだから後は出たとこ勝負、そう申さぬまでもそれで納得出来ねば休めばいいだけの話。何らそれを咎めるものでもなく。非常事態にかこつけて無理が通らば道理は引っ込みかねず。

生徒なき校舎に教師は必要か。悶々とした日々も上の命とあらば従わざるを得ず。学ぶ機会は取り戻せるが、命は取り戻せぬ、と迫られれば命あっての学ぶ機会と誰しもがそう思う。ならば、人の命は地球よりも重いと凶悪犯を釈放するはどうか。一人の命救う為に複数の犠牲を生む悲劇を何とする。急がれるワクチン開発、臨床試験を省かば市場投入の前倒しは可能。いや、入念に臨床を重ねたとしても確率はゼロにはならぬ、となると今の状況に照らして副作用と致死率の天秤で果たしてどうか。そりゃ保護者の懸念とて分かる。行かぬ自由を認めるならば行く自由とて尊重されるべきではないか。言うまでもなく「教育」「勤労」「納税」は国民の義務にて。

子供たちの学ぶ意欲を汲む、いや、それ以上にそうせざるを得ない保護者の都合だったにせよ学ぶ機会の提供こそが使命。補完どころか休校の分まで、と抵抗を続けてきた学習塾にも降りかかる休業要請。が、それすらも克服せんとメールにて配布される課題プリントに遠隔授業。いかに困難な局面においても生徒の為に八方手を尽くす塾講師の熱意は公立の教師に勝るとも劣らず。見えぬ再開に失いし機会をいかに取り戻すか、休校の代償とて決して小さからず。

接触を避けることを理由に「遠隔」が流行とか。どこぞの市長とて膝突き合わせての「車座」を推進しとる訳で、鍋は囲んでつつくもの、酒は古来より酌み交わすものにて画面に乾杯など昭和の人間には出来ぬ。「降る雪や明治は遠くなりにけり」(中村草田男)の心境か。言わずといづれもこの間は禁物にて。そういえば数日前なんぞは本市においてもソレを発動せざるを得ない局面を迎えたとかで上層部が報告に来られて。さすがに予防接種とは間違えぬも適訳は「業務継続計画」というのだそうで、接触を避ける為に市役所も間引き操業へ移行させるとか。

時に常勤を何割減らした勤務体制を実現などと誇らしげに語られるも不在とて給与は支払われとるから、さもそれで費用が削減されるかの如く捉えるは愚。あくまでも非常時の「特別」とはいえど、それで特段の支障が生じねば以降もそれで十分となりかねず。迫りくる脅威、中でもアルファベット、「AI」とか「BCP」とか自然界でも外来種ってのは繁殖力が旺盛だからナ。押し寄せる時代の波に逆らわずとそんな時こそ目の前の画面に浮かれておらんで次なる時代における自らの存在意義なるものに想いを巡らせてみてはどうか。

不況とあらば向けられる矛先は公務員、中でも行革の標的に最も近き職種にて常に周囲への気配りを欠かさず低姿勢を貫くべし、と朝の運転席に説いてみたものの、運転手以上に御身のほうが危ういかもしれぬ。

(令和2年4月20日/2565回)