民度

いわゆる「タワマン」は階層に比例して価格が変動するとか。ならば庁舎の最上階を占拠するは言わずと知れたあの面々、しからば議長室の眺望はさぞかし...。そう、確かに上位三階が割り当てられるも築五十年を超えた庁舎は低層の全七階、尚且つ、局長以下、監視役の職員と同階とあらば最上ならぬ最「下」。上下結ぶ昇降機は当時のままにて階下の職員選ぶは階段なれど五階となるとさすがに。

上階から急ぐ途中の停車は歓迎されざる客人にて中に向き合う不機嫌な顔。が、こちとてそんな不快な目に遭う位ならば待つも厭わず、室内カメラでも設置してイヤな奴がおれば「通過」ボタンを。そんな税の私物化は許されるはずもなく。いや、建設中の新庁舎に「痴漢防止」の名目にてどうか、との入れ知恵の主は...。懲りてないナ。

迫る原稿〆切。小姑は口を挟まぬに限る。議長とて特別扱いは許されず、後輩の命のままに分担を終えた。全一百三十六頁、四百字詰め原稿用紙にして六十七枚分の文字数。あくまでも個人ならぬ会派の質問にて各自が寄せた原稿を質問者が全員の前で一読。寄せられた意見をもとに正副団長が手を加えて完成となる運び。

手がけるは個人なれどそれが全員の目の下に晒されるというのがミソで他人様に「見られる」ことが力作を生む原動力。まぁ当人の意識がそこになければ無意味なのだけれども。更に申し上げれば自らの原稿がどう手直しされるか、そこがまた一つの学びの機会となる訳で。前段は資料から抜き出した上で「現状と今後の対応」を聞いておけばそれなりに仕上がるもやはり同調圧力に屈せぬ個性的な「作品」を生んでこそ。

「新たな概念は独自の解釈による齟齬の余地を残し、都合よく利用されることで生じる混乱は枚挙に暇がない」と格調高き冒頭で始まる作品、を投稿しておいたのだけれども幸か不幸か物言いがついた。異例の厳しさではないか、とY君。おい、そりゃ何か私の過去の仕事ぶりを否定するかの言いっぷりではないか。されど、こちとて些か過ぎた感は否めず、ただ、それとて独特のクセ含めて直してくれるはず、と期待したものの、一字一句の添削なく。役職に気を遣うタマにあらねば相手方の怠慢か、はたまた「呂氏春秋」並みの隙の無い作品だったか。

本場の微妙な意が伝わらぬ、そこに策士たる所以があるのだけれどもカタカナの多用は欧米信奉以上に自己防衛の処世術。それは誰の目にも明らかな「模倣」なのだけれども新たに添えられた二字に込められた意は凡人に知る由もなく。「アラート」なる語彙そのものに「警戒」の意は含まれるだけに注意報と警報の違い程度か、抱く違和感。自県の宣伝以上に相対的に隣県の知事の言動を浮かび上がらせる、そして、それこそがまさに相手の術中ではあるまいか、などと。

それが当人のいかなる評価を生むかは与り知らぬところなれど、所詮それが「民度」などとこちらに向くは放っておけぬ。そう、「民度」といえばあの御仁。自国を辱める自虐発言の数々に曲学阿世の徒が跋扈する巷において誇り高き国民性を鼓舞せんが如くのその発言に「うむ」と頷いた方も少なくないはずで。確かに上から目線ではあったかもしれぬが、そこまで排除せずとも...。

(令和2年6月10日/2575回)