手毬

縁あって「心のふるさと良寛」展に御招待いただいた。

郷里の偉人ゆえ聞き慣れていたものの、実物を見るに初めての機会となり。自ら「大愚」と称して憚ることなく、その飾らぬ人柄に滑稽な逸話も多い。良寛といえば「書」か「手毬」。子供たちには大変な人気を誇ったとか。皆こぞって求めるに筆とらぬ当人も子供たちにせがまれて記した「天上大風」。

屏風の書など万人唸らせるに納得もその凧文字を見るに私とて劣らぬのではないか、と臆面なく申し上げれば、独特の「味」の有無を説かれ。茶室の掛物、いわゆる茶掛は、墨跡を第一とす。つまりは書いた人が立派でなければならぬ、と説いた利休。とすると良寛の書などまさに。

巧拙は兎も角も墨字は直筆に限る。書道家にあらずとも恥じぬ筆をとる人は巷に埋もれており、紙一枚で労に報いんとする賞状の氏名位はケチらずと直筆で用意してはどうか。押印こそ典型例、何でも簡素化を図らんとする風潮に異議を唱えんと。ということで、今日も結論はそこに落ち着くのだけど。

常任委員会のオンライン化の議論が開始されると聞いた。時代の要請といえどやはりカタカナは好かぬ。特段の支障が生じぬ以上は召集に馳せ参ずべしであって、それすらもかなわぬ状況とあらばいっそ「降参」というか「再開の目処が立つまで未定」としたほうが賢くはあるまいか。

頽廃寸前の古びた価値観、「慣れ」を捨てて適応せねばならぬ、といわれればそれまでで。今や対面同士すらメールでやりとりがされる時代。私とて誰もおらぬ委員会室にて画面と向き合うに構わぬが。新たな操作を覚えるに億劫とかそういう低次元の話にあらず。

昨今なんぞは採用時の面接とて画面向こうというではないか。それで何ら当人が変わるもんではないかもしれぬ。が、誰しもがあの似ても似つかわぬポスターに後悔したことはあるでしょうに。やはり「実物」に勝るものなく。

いや、それ以上に憂慮すべきは意識の変化。最近見かける近親者に限った葬儀とて「万が一」を回避せんとする気遣いだったはずも大人数の客人という煩わしさから逃れんとする口実にされとるフシはないか。悪貨が良貨を駆逐するは経済のみならず。

当初は不自由の対価とされた時短の協力金とて。その金銭的な多寡以上に働く意欲の喪失こそ取り返しのつかぬ損失。オンラインとて不測の事態への対処、移動時間の節約等の「もっとも」らしい理由が並ぶもいつしか外出するに「億劫」なる意識が蝕まぬことを願うばかり。

新たな挑戦への意欲は阻害せぬ、が、そこには他市に先駆けた取組を誇らんとする意図とて隠れていないとも限らず。「会議のオンライン化を実現」の見出しは「うわべ」に過ぎず、有権者が期待寄せるは手段ならぬ議論の中身と市議会としての意思決定ではあるまいか。

かような状況になくば、まず目が向かないのだろうけど、目下、あの高視聴率ドラマにハマっており。愚息曰く、週明けの月曜は担任含めて教室の中でも話題と。そう、あの桜木先生の気迫こそ。それも画面向こうですが。

(令和3年6月15日/2647回)