校長

許されし手段は通信回線を介した往復書簡、つまりはファックス。その何枚ものやりとりを目にした。踊る専門用語に特有の言い回し、古文を読み説く受験生のようなもの。「温もり」なき無機質な文章に伝わらぬ機微。そこに浪費する体力は「双方」ともに他に向けられるべきではないか、と。

経緯を聞かば、鳴りやまぬ電話に忙殺されて身動きとれぬ、両者の齟齬をなくす為の苦渋の選択、何人も平等に扱われるべし、との建前は分かった。されど、そこに選んだ「措置」がかえって事態の深刻化を招いておらぬか、などと。これが議会答弁ならばどうか、あれだけ「直」にこだわるは相手の顔色に微妙なニュアンスを掴まんが為ではないか。

およそ公平公正などとの大義名分は都合よき口実に過ぎぬことも。最近はすっかり鳴りを潜める「待機児童」。別な歪が生じつつあるらしく。そこに市議の介入、現場の恣意的な判断を防がんとする意図や否定はせぬ。全て客観的に点数化されて上から順に割り振られて園側に渡される「確定」の結果。氏名と性別、住所の一部位で、それ以上は個人情報を理由に開示されぬと聞いた。

子の入園を叶えんとする運命共同体である以上、それを理由に入園を拒むものになく、他園との間にいわゆる「トレード」が成立するやもしれぬし、仮にそんな「融通」がきかなかったにせよ猶予があれば自園の中で打てる手があるかもしれぬ。希望者に枠をあてがうことで役所は役目を果たしたかもしれぬ。が、入園式の日に初めて知る現実に対応が後手に回るは園と保護者の双方に不幸ではあるまいか。

そこに見え隠れするは互いの信頼。予め知らせてくれれば協力は惜しまぬ、との園に対して、そんなことを事前に告げれば受入に難色を示されるやもしれぬ、との役所。よもや梯子を外されぬかとの疑心暗鬼は分からんでもないが、それこそがまさに越えねばならぬ峠ではあるまいか。

そんな一つに医療的ケア児の受入があって、この国会にて支援法が成立したと聞いた。久々にメールをすれば既に高校二年生と。そう、あの時も何故に私に回ってきたのかは知らぬ。が、突然の手紙に「それまでは相談したくても窓口なくたらいまわし状態だった」と。

気管切開の男の子、入学を前にみんなと同じ小学校に通いたくとも学校側が受け入れてくれるか不安、との悩みに訪ねた校長室。気心知れた先生なれどいかんせん内容が内容にて。経緯を話さば「ぜひ、うちで」って。逆にこちらが心配してしまい、勝手な判断を現場から責められはせぬかって。

当時の往復書簡、メールを懐かしく読み返さば、幸いにも自らは学校に待機せずに通わせることが出来たものの、そこに看護師等の手配を必要とする保護者もいる訳で、そんな子供たちの為にも力を貸して欲しい、と。以来、「画期的」にあらずとも改善を促す質疑位は過去の会議録に残っており。

[平成23年第3回定例会-07月05日-08号、第5回定例会-12月19日-07号、平成30年第2回定例会-06月27日-08号]。

校長の一言に当人たちがどれほど勇気づけられたか。制度云々以上に物事に向き合う現場の本気度こそ。

(令和3年7月10日/2652回)