偽薬

晴れて放免の身とあらば断る理由なく、久々に「選挙」と名の付いた会議に顔を出した。会ってなんぼの世界にて戸別訪問に勝る必勝法無し。あくまでも他陣営の話、としながらも訪問において歓迎されかねぬこともあるやに聞いて迷う判断。

政府として自粛を求めておきながら、との負い目こそあれど、見知らぬ家ではあるまいに。小言を言われるなどハナから応援されておらぬかそんな時だけ顔を出すからではあるまいか。そこに躊躇する位ならば会議の招集とて。

近親者のみとあらば届かぬ訃報。名簿の変更こそ抜かりなきも、やはりどことなく気が晴れぬもの。目に浮かんだ時に手を合わせれば故人も報われる、と諭されるもその姿を知るは故人と本人のみ。いや、死人に口なし、御遺族に伝えて下さる保証なく。

とすると盆などは弔意を示す好機なれど公職選挙法では香典は御「霊」前のみ、それも本人が参列した時に限る、とされ。出さば相手も返礼に悩む、あくまでも目的は合掌なのだけれどもさすがに「手ぶら」とあらば常識を疑われかねず。それでも仏前に手を合わせれば、御遺族から喜ばれこそすれ、追い払われるなど。

足りぬ病床に助からぬ命、が煽動的に報道されるもそこに事態が打開される見通し立つならば。増幅される不安に病床の確保こそ焦眉の急と知りつつも。二床だけでも何とかならぬか、と必死の説得を試みるは市長本人、と人づてに聞くに。もはや限界、というか。

既存の枠組みに捉われていては前に進めぬ。従来の「手厚い」病床にあらずとも。と申してもそこに生じる責任が躊躇の元凶。一方、ワクチンこそ切り札、接種率の向上こそが危機を救う、と魔法の杖が如く意識に浸透した感があるものの、あくまでも免疫を高める一手段に過ぎず。

そう、免疫といえば。天然痘の根絶の立役者エドワード・ジェンナー。自らの子に治験を施した美談が耳目を集めるも、その研究の端緒となりしは若かりし研修医時代に耳にした患者の一言。「私は牛痘にかかったので天然痘の心配はない」と農村の女性。

酪農が盛んな地域に伝わる言い伝え。牛にも天然痘に似た症状あり、牛痘と呼ばれたその症状は人に感染するも重症化せずに完治。そこに自然と免疫が生まれることを実証した同氏はとにかく「観察」好きな少年だったとか。

「前向き」をモットーとする走遊仲間のメーリングリストの投稿に運動習慣がある人は重症化しにくい、との記事を見かけた。治療に勝るは予防。何もワクチンにあらずと。そこにエビデンス(科学的根拠)がないなどと横を向いておらんで。何をそれっぽっちと思われるかもしれぬが、私など「うがい」こそ最上の予防法にあるまいかと信じて所構わず実践しており。偽薬とて信じて呑まば。侮れぬプラセボ効果。

巷に氾濫するは負の情報ばかり。そんな中に身を置いていては愚痴しか言えず、それでは人も寄って来ぬばかりか運も味方せぬ。まずは意識を変えてみてはどうか。それこそエビデンスはないけど。

(令和3年8月25日/2661回)