娑婆

今日ではものの数分も当時などは数週間。その非効率に見える時間こそが知への欲求を育む、と。「未来の科学者たちへ」(大隅良典、永田和宏共著)。海外の論文を入手するに図書館に届く目録に記された宛先にはがきを送付。船便の到着を待つ間に駆り立てられる妄想、いや、逆に興味が失せたりも、そんな体験が語られており。

こう見えても理系のはしくれにて寝る間も惜しんで没頭するは数学の難問。解けぬ一問、翌月に届く正答と解説に知る新たな発見。GIGAだか何だかボタン一つの回答など本当に知が磨かれるか。無意味とは申さぬまでもそれで全てが解決すると思うは早計。合理性の追求が必ずしも好結果を生むとは限らぬ事例の一つ。

屋根の下にてそんな話が浮上していたことは存じ上げていたものの、自宅内での転倒による骨折がダメ押しとなり。これ以上は家族に迷惑をかけれぬ、と施設への入居を決意したSさん。面会は事前予約制にて平日の午後二時から三時までのうち十五分限り、それもアクリル板越し。身内にしてかくの如き状況なのだから他は推して知るべし。

やむなき措置とはいえ刑務所の受刑者ぢゃあるまいに。となると自ず遠のく施設。面会の機会減れば認知機能の低下とて免れず、片道切符に寄せられるは憐憫の情。そんな会話が聞こてか、久々に残る着信履歴に折り返して面会に伺えぬ粗相を詫びんとするにこぼれるは施設への不満。個室と申しても独房が如く光る監視の目。

聞かれてはどんな酷い仕打ちが待ち受けているやもしれず。「些か声を落とした方が」と告げれば、「心配いらぬ、自宅に戻ってきた」と本人。確かに外泊の許可位はなければ。「いや、もう二度とあんな施設には戻らぬ。次に自宅を出る時は介護施設ならぬ病院だ」と在宅を決意されて。入居後、数週間にて違約金や知らぬ。晴れて出獄、いや脱獄か、娑婆の空気は抜群に旨いらしく。

近所のコンビニに昼の弁当を買いに行くが日課。天丼が旨くてね、あれだけ仕入れが多いと余りはせぬか、と店の心配まで。パートの女性から私の店番の時にいらしてね、との一言は相手の機転なれど、自らが必要とされていると知って取り戻すは人の尊厳。そのへんが最高のリハビリになってか骨折も知らぬ間に治った、と。恐るべし娑婆の魔力。

やはりそうでなければならぬ。月一回のリハビリ教室に集うは脳機能障害の方々。この状況下に何も好んで外出せずとも、との心配もどこへやら。種目はハンドベル。楽譜を渡されてまずは指導者の先生による全体の解説。八分音符に四分音符、音符右脇の付点は伸ばす等々。

その後は先生のオルガン伴奏に各自がパートを受け持つのだけれども、決して甘えを許さぬ指導法に生徒との距離感が絶妙。何度かのやり直しの末に「季節の歌」を見事に奏で上げた。次なる曲目、エディット・ピアフの「愛の賛歌」は応用編だそうで、聞こえてくるは不安の声。こちとらあくまでも「視察」していただけなのだけれども先生と目が合うに渡される楽譜とハンドベル。

第二楽章の最初の音がズレている、との一言に、こちらに向けられる冷ややかな視線。恥も外聞も投げ捨てて。

(令和4年2月20日/2695回)