梨園

男女平等に反する、と申してみても仮に男性ならば、いや、若い女性では、と想定すれば不都合が生じる訳で。トイレの清掃員は年増女に限る、と言わば偏見か。庁内のいい話相手だったはずなのだけれども最近は見かけず、もしや。

結核を患いし病人の着衣の洗濯、それも年頃の娘とあらば尚更のこと。躊躇して店を出たものの、脳裏よぎるは身を寄せし叔母の小言。選んでおれぬ、と踵を返して再び店に。その口や半年前の求人なれど仕事が仕事だけに未だ働き手が見つからぬ可能性とて、と渡されし地図を頼りに辿り着くは立派な御屋敷。

病床に伏した若旦那も見事に回復を遂げ。家元の女中なる新たな求人に群がる志願者の中にあって当人だけは半年前の求人、つまりは「病衣の洗濯」と誤解して臨む面接。そんな覚悟と偶然に「符牒が合った」と採用を手にする主人公の光乃。宮尾登美子著「きのね」の冒頭。

乙女の微妙な心理を察するは作家の資質もそれを表現するに欠かせぬは言語。この国民性を育むに島国なる地理的な理由と日本語が果たした役割は小さからず。国を侵略するに武器なくとも「言語」と「文化」さえ奪ってしまえば。アルフォンス・ドーテの「最後の授業」に見る歴史の教訓。つい最近もそんな話を聞かなんだか。

久々の視察を終えた。団体行動とあらば我を通す訳にはいかず。若手に言われるがままに同行して当日に初めて目にする項目に「イマ―ジョン教育」とあって。カタカナは好かぬと日頃申しておるではないか。聞かば、国語と道徳以外の教科は全て英語で行われるとか。シャワーに擬えたあの教材じゃあるまいに。

あくまでも全市の中で当該校の一学年一学級のみ。選抜は試験ならぬ完全な抽選。すぐ隣では通常の授業が行われており。英語か否かの違いだけで内容はほぼ同じ。子供が有するはあくまでも教育を受ける権利であって、教育を受けさせる義務は親にあり。どうせなら「バイリンガル」のほうが、と人気は分かる。

一方で気になるは教師の負担。そして、何よりも「一般」級に「特別」級などと分け隔ててはヘンな意識が生まれはせぬか。が、そんな心配は全く無用、劣等感などどこへやら。一般級とて些かも負けてはおらぬ。むしろ隣にそんな学級があることが刺激になってか授業に向き合う生徒の姿勢が積極的。教壇に立つ側とて倍の負担がかかろうと、そんな重責を担えるは冥利に尽きるとばかりに意欲的とか。

んな特別扱いは格差を助長しかねぬ、というけれども必ずしも「特別」な方に軍配が上がるとは限らず。特別級そのもの以上にそこから派生した副次的な効果こそ。大人の都合で捉えるに見落とされる子供の可能性。

そう、最近目にするマスクの話題。要不要を「真剣」に検討する大人などどこ吹く風と子供たち。大人が口を挟まずと彼らのほうが遥かに柔軟に対応しているように見えて。むしろ、大人が勝手に決めたモノサシをあてがわれるは自ら思考する機会を奪いかねず。大人がいうほど子は愚かではない。

(令和4年5月15日/2711回)