無恥

「多摩川を汽車で通るや梨の花」とは子規の一句。旬の季節、今年も名産の梨が届き、数片をほおばった。多摩川の右岸、つまり本市側は梨の栽培が盛んにて目立つ直売所。川の上流を目指しての往復。ゆるキャラまで動員して宣伝に余念なき稲城市の様子見ながら。やはり旨そうだな。

代表質問を終えた。こんな稚拙な原稿ではみっともない、その羞恥心が当人の成長を促す訳で。「罪」の文化の西欧に対して、「恥」の文化のわが国。あの古典的名著など自慢に見えぬ自慢、それこそが妙味だったはずが、昨今のSNSの投稿など「露骨」過ぎはせぬか、との鋭い考察。酒井順子さんの最新刊のタイトルは、無知ならぬ無「恥」の知。

随筆、エッセイの類などすべからく自慢。とすると本稿なども例外にあらず。何が言いたいのかさっぱり分からぬ、とは「当時」から言われ慣れていたことなれど、こちとて、ただでさえ姿が見えぬ、との声に何かしら目に見える形で。

そんな贖罪の念に駆られた日々の懺悔録。特権とばかりに市から届く情報をコピペして発信しておれば、つつがなきはずも。自慢に見えぬ自慢、というよりも、自慢に「ならぬ」自慢話。いや、自戒を込めて記す失敗談など無理に読んでいただかずと。どうでもいいな。

立ちはだかる壁。読めぬ漢字に知らぬ語彙、に初心者は躊躇しがちなれど、語彙より視座、教養より共感こそが俳句の妙味。ましてや即興の一句など。これと思いし題材をメモに留めて後に推敲。季語などなくともまずは材料。

今月の兼題は「桐一葉」。落葉ならぬ桐というのがミソで。子の誕生に苗木を植えて嫁ぐ際に云々と聞けど実際は。その葉はドサと音がするのだそうで、地元の御婦人にその瞬間を詠んだ句を聞けども失念してしまい。

地元の話題、それも「食」とあらば知るに損なく。そう、名店に修行を積みし地元農家の御子息がレストランを開店と聞いて。既に御婦人二人の先客がおられて優雅に珈琲を。オッサン一人に似つかわぬ店内。注文の待ち時間にメモした句が「桐一葉裏街道のレストラン」。一応、形だけは整うもそれだけでは単なる物事の解説に過ぎず。

隠れ家的な雰囲気、地元野菜の献立、厨房に立つ店主、上品な客人等々。五七五に凝縮するに悩む取捨選択。そのへんが頭の体操に。季語の「桐一葉」は動かぬ、とすると残るは十二音。レストランは五音なれど、店とすれば二音。あれこれと悩めども詠まんとするは目立つ表通りを避けたその立地、当初の直感どおり「裏路地」は欠かせぬ。

「道一つ裏の隠れ家桐一葉」、「裏道を眺む店内桐一葉」と推敲重ねて、「窓越しに裏道眺む桐一葉」を完成形に投句してみたものの。花より団子、駄句より店名。「cafeちょくちょく」は席数に限りあり。

(令和4年9月15日/2734回)