賞状

定年後の社会貢献とばかりに身を投じてはや十七年。今や立派な「後期」にてエースとして老人会にも勧誘される身、だそうで。白内障に心筋梗塞、悪性腫瘍と過去の執刀は片手で足りず。我とていつまでも現役でいる訳にはいかぬ、以後は各自が責任を、との訓示は昨年も聞いたような。

手放さんとして手放せぬ不思議。んな当人が用意するは当日の賞状。一般の部と視覚の部を各三位まで、とされるに予備二枚づつ。「づつ」ならずとも部門と順位を空欄にしたものを二枚ほど用意すれば、なんてことは言わぬに限る。

されど、見逃すに見逃せぬはその漢字。「視」が「聴」に。それも、ちゃんと優勝と準優勝は「視」なれど三位のみが。そのへんに悪戦苦闘の様子が垣間見え。「この位であれば私のほうで」との善意の申出も落胆を見せる本人を前に逆効果だったか。恒例の高齢者と障害者の交流スポーツ大会を終えた。

その役目や輪番制とされど進む高齢化に人手なく、共益費等の金銭で解決できるならば、との求人は団地の集積所の掃除。散乱するごみを片づければ気分も晴れるばかりか、何よりも人に喜ばれるは生き甲斐に。副収入も見込めるは一挙両得、よし私が、と手を上げたTさん。

最低でも五年、と、その意気やよし、なれど五年後は齢九十。さすがに迷惑になりはせぬか、と告げれば。いや、八十九だ、とTさん。高齢者は下手に甘やかしちゃいかん、と知れど、甘やかすも何も。生態系を観察するに覆される既成概念。なるほど、そうきたか、って。

空いた時間に本屋を物色するのがささやかな愉しみの一つ。目にするは今週のベストセラー。そこに不作為がないとも限らず、あくまでもチラ見に過ぎんのだけれども、目立つはその表紙。黄色とピンクの派手めな色遣いに見てとるは著者の顕示欲、というよりも。内館牧子の「老害の人」。勿論、買って読んだよ。

さて。報道陣を前に下げられる頭はそこに限らず、認めさせられる責任。いや、そこに落ち度は無かったか、と問われれば認めぬ訳にはいかぬ。が、現場を訪れるは「強制」されたものにあるまい。慣れぬ衣装に身を包み、あの雑踏に紛れんとするに求められる判断。行くな、とは言わぬ。危険と知れど自らの欲が勝った可能性とて。とすると、自らの非とてゼロではあるまいに。

そこに触れぬはコメンテーター。役所の過失ばかりが煽られて。陰険だよナ。「怪我と弁当は自分持ち」なる価値観やいづこ。自らの責任問われて然るべし、との意もさることながら、そうならぬよう判断力を磨くべし、とも解釈できぬか。全て他人のせい、では人としての成長も見込めぬ訳で。

立つはグリーン上、カップ狙うに右か左か、上りか下りか、キャディ頼るは結構。さりとて、外す一打の責任をそちらに負わせるは。自己責任だよ、自己責任。

(令和4年11月10日/2745回)