豪商

苗字こそ先祖を同じくする証。どこまでをそう呼ぶか、に諸説あれど、いわゆる土地の人、数代遡って此の地に居を構える軒数や千に満たず。圧倒的に転入組が多数を占め、かくいう私もヨソモノの一人。それが縁にて此の地に移り住むもの人少なからず。

愛校心が旺盛な校風にて母校が同じ、というただその一点を以て応援いただくとは何とも贅沢な話。御自宅に招かれること一度ならず。いつも奥様の手料理をふるまっていただくのだけれども教授自ら手がける燻製と海外経験豊富な奥様が作るピザが絶品。

そんな御夫妻から依頼を受けるは数年前。自宅前の公園の一角を花壇として拝借できぬか、と。当時、雑草の生い茂っていた手つかずの公園が見事に再生を遂げ、今や日中は子供の声が絶えぬ。ばかりか、月一回の手入れに集う仲間が一人増え、二人増え、とりわけ、転居組の若い母親たちが協力して下さるとか。公園の再生が育む近所の絆。

統一地方選を前に報道陣から調査票が届いた。いや、最近なんぞは自己申告では真偽が分からぬ、証明書も併せて提出せよ、と。せちがらい世の中で。学歴以上の眉唾がこちら、か。父母兄弟ならばまだしも、我が家のルーツは源氏だ、平家だ、などと言われても。

肝心の当人見るに、と思わぬこともなきにしもあらず。家柄なんぞは自慢せぬに限ると知れど、ならば気にならぬかといわれればウソになり。気になる出自。人生も折り返し過ぎるとそこに興味を抱くらしく。

戦争に帰らぬ人となりし祖父。終戦の前年に生まれし一人息子が父。女手一つで生計立てるに働き口を探さねば、と故郷を後に。恩給なる国の庇護のもと、経済成長にも恵まれて。私が生まれた頃などは何一つ不自由なき日々。

んな父方の所縁の地は新潟県の柏崎市にあって。当時は刈羽郡西山町と。西山町の偉人といえば言わずと知れたあの御仁。いつぞやに記したはずなれど祖母は当人と同じ二田尋常小学校の卒業にて。字(あざ)こそ違えど同じ村の出身。と、そのへんまでは幼少に聞かされた話。祖父より前は向こうも語らぬし、こちらも聞かぬ。

母が元気なうちにと始まる終活。実家の仏壇を整理しとる中に見つけし遺品を手がかりに弟が謎の解明に挑んだそうで、初めて聞かされる「その先」の話。写真に見える伊市郎が曾祖父にて、そこに見えるは。

どこの馬の骨のヨソモノに聞かれる出自。どう転んでも田舎の百姓、と繰り返されてきた返答も見直せねばならぬ、かも。が、それ以上に目を惹くは寛政年中の記述。やはり与えられし原稿を読み上げるよりもツルハシ片手に鉱脈を掘り当てるが性に合っているかも。

豪商の館が現存せぬは放蕩にないことを。

(令和4年12月5日/2750回)