閻魔

チェーンソーの響く里山冬支度。普段は疎遠なだけにせめて年に一度位は、と珍しく地元を歩いており。年一度といえど、あくまでもこちらの都合にて相手や在宅とは限らず、久々の対面に窺い知る近況。

働き盛りの大黒柱が病に倒れてはや八年。長男には二人目の孫が誕生、年の差離れた弟は受験を前に骨折、本日退院にて迎えに行かねば、と奥様。よもや野球か、と聞かば図星だそうで。大きくなったんだろうな、S君。

冬日さす縁側にて談笑する老夫婦。閻魔様が来い来いいうけれども何とか生きながらえている、と語る岡上のTさんは齢百歳に迫らんとされて。

途中、向こうから手を振って下さるに招かれざる客人ではなさそうなれど、畑仕事にマスクとはさすがに度が過ぎておらぬか、との心配。予防ならぬ防寒用だそうで。

麦酒ケースに腰かけて出荷に追われるは父君だったはず。よもや、との心配や杞憂。元気な声は聞こえているよ、と奥から顔を覗かせる父君。御子息とて動くは口のみならず、談笑も止まらぬ手先冬支度、と一句。

家主呼ぶに聞こえるは裏庭からの声。不自然な位置の原因や庭に捨てられた種と。柿もぎに精を出す若亭主から「シブいのがあればすまぬ」と手渡される収穫物。そう、「禅寺丸」は不完全甘柿にて全てそうとは限らず、中には。それとて自然の恵み。むしろ体内の殺菌に役立つかもしれぬ。

昼間もぎ夜なべに柿の袋詰め疲れし妻は舟をこぐなり。舟こぐは転寝の意。区内の柿もぎ名人と称された御仁の一句なれど、柿、というか「禅寺丸」を巡る逸話がふんだんに詰まった一冊。「ふる」はひらがなにてたわわに実りし柿が「降る」をかけて。柿生と岡上にて柿岡。「ふる里を語る柿岡塾」が刊行する「柿ふる里」。そう、「ふるさと」といえば。

慈善活動にて得た収益を子供たちの為に、との申出に仲介の労をとって数年。手にした現金を袋に包んで学校側に受け取っていただくのが当人のささやかな愉しみだったはずなれど、今や直接の授受はまかりならん。万が一、そんな申出あらばネット経由にて、との御布令が出回っているとか。

従来と何ら変わらず使途は当人が選択可能、と申してもあくまでも分野の指定にて当該校に届くとは限らぬ。いや、そこは備考欄に校名を記してもらわば、と市側。んな稀有な御仁は年配者と相場は決まっとる訳で、慣れぬ操作に気が変わりはせぬか。というよりも、そもそもに見返りなど求めるものになく、むしろ、経由することで胴元に搾取される手数料とて。

流出に歯止めかからぬふるさと納税。返礼品の過当競争は知られたところなれど、本市などは制度の趣旨にそぐわぬと与せぬ姿勢を貫くは結構なれど、その一方で流入分は全てその枠組みの中で計上すべしとは勝手が過ぎぬか。やはり実物を渡すに自らの想いを伝え、相手から示される謝意にこそ。

年末の地元回りをメールで済ませるようなもの、ネット経由の賽銭に御利益などあるか。推奨ならばまだしも強制など、バカも休み休み、と憤慨するに、役所の常識や非常識と気づきし校長自ら市との直談判に臨んでいるとか。連絡未だ来ぬところを見るに。

(令和4年12月15日/2752回)