中継

視聴率こそ知らぬまでも巷の反応を見るに。

質問台に立つ以上、いや、その「枠」に映り込むに自らを誇示せんとの欲は否定せぬ。が、そこを意識するあまり本分を忘れては。画面向こうに感じる視線。オレを見てくれオーラがハンパなく。目線ならぬ顔全体、いや、上半身だけがカメラを向く、向き「続ける」はものすごく不自然とか。

「いた」という口コミで十分。むしろウォーリーを探せが如く、凝視して探す位のほうが。惜しむらくはあと一つ質問者に近くば。まぁ彼は「比例」だからナ、とネタにされる地元のN代議士。が、かえって話題性が高く、好感度が上がりはせぬか、と。

露出せんとの欲が勝るはそこのみにあらず。相手陣営に先んじて、との競争が生みし悲劇。どこぞの駅で朝四時の陣取りも後から来た陣営がすぐ隣で始め、すったもんだに一触即発、乱闘寸前だった、とか。既にそこに相手が「いる」のだから後から来て断わりもなく始めるはあつかましく。

逆に、折角来た以上は何とか、とすがる相手に一寸たりとも譲らぬ、と拒否してみても。おぬしの私有地にあるまい、何の権利があってか、なんてことも。そんな状況下にあっても「それなり」の折り合い付けるが大人ってもんだと思うけど。それこそが消耗戦というか不毛な争いであって、選挙に競うはそこにあらず。寝不足顔で有権者に向き合うは逆効果。

寒空の中、朝四時から一人陣取るなど。前哨戦は兎も角も本戦にて続かば体力が持たぬ。それこそが全陣営にとって賢い選択。候補者間の調整がつかぬか、と言いだしっぺになってみたものの、行方やいかに。

加熱する場所取りはそこのみにあらず。区スポーツセンターの武道場。その時間帯は他に競合なく、ある団体がほぼ占有していたものの、他団体の参入あって抽選に。そこまではごくフツーの話。確率二分の一と申してもあくまでも確率は確率に過ぎず、立て続けに二回ハズれることもある訳で。少しでも確率を上げんとするに個人とて同列と知らば部員の「個人」名義で。

一対一が一対二になれば俄然有利。ならば負けじと相手方、五対五になり、十対十に。いや、向こうに部員は五人しかおらぬはず。とすると「知人」以外にありえぬ。名義貸しや規約違反にあるまいか。パイが大きくなるほどに薄れる一票の価値。申込の件数こそ増えれども事実上は二団体の争いであって、そこまでくれば二分の一の確率はさほど変わらず。

かたや、抽選のたびに「全員」が「動く」訳で。そこに費やされる手間の割に効果は限定的。何とかならぬか、と相談すれども市から委託されとる身にて権限が及ばぬとは館長。ならば市は。「制度上、やむなし」などと寝言じゃあるまい、悠長なことを申しとる場合じゃなかろうに、と球投げど響かぬ組織。

まさに役所の体質を問うにこれほどの好材料があろうか。当事者意識の欠如が透けて見え。ならば、と立つ舞台は。市議会にも中継ありますゆえ。ぜひ。

(令和5年3月5日/2767回)