散財

選挙後に必ず、との約束。同伴者が御高齢な上に予報が雨とあらば順延でも、と気遣ったつもりが、甘やかすは当人の為ならず、何よりも翌週では肝心の企画展も終了してしまう、と相手。ここ数年、TARO賞に合わせて訪ねるが恒例となっており。本市の隠れた名所、岡本太郎美術館。

常設展とて必見。どう転んでもその題名には見えぬ作品群の中でも作者を特徴づけるは「眼」。他は分からずともそこだけは。目は口ほどに物を言い、とはよく申したもので。

んな立派なことをしゃべっとるものでもないのだけれども世に物好き多く、選挙中には見知らぬ方々からの接触少なからず。論戦を挑まれるに逃げも隠れもせぬ。この間とて待ちわびていた訳で、何も「今」にあらずとも。とすると、そこには何か特別な事情が。およそ目を見れば正邪の判別位は。ほんとの話。

んな一人。演説中に迫りくる高齢の御婦人の眼や好意とは程遠く。過去六十年間、欠かしたことなき投票を「今回は」辞退する、とのこと。ふむ、折角の権利を放棄するとは残念なれど、それは当人の勝手。ならば、そのまま実践すればいいわけで、あえて公言するは。どこぞの有名人の寄付に同じ、そこにはやはり純粋な善意とは別な意図が隠れていると見るが妥当であって。

さすがに無視は失礼。「そうでしたか」、と精一杯の反応を示してみたものの、シナリオが違うとばかりに一方的に語られるその理由。別にこちらが求めた訳ではないのだけれども。当人曰く、近親者にその職業の方がおられたものの、選挙のたびに先祖代々の財産を使い果たして一族郎党が糊口を凌ぐ生活を余儀なくされたそうで、今の議員や私腹を肥やすばかりにあるまいか、と。

不幸にもそこに翻弄された御身内の人生には同情の余地あるかもしれぬが、そりゃ当人が好んで散財した結果であって他人には関係なく。仮に出馬に際して周囲の後押しがあったとしても職業選択の自由に辞退すれば良かっただけの話。責められるべきは当人であってこちらに何の因果があろうか。

そもそもに不遇の人生に嫌気がさして選挙に行かぬ、とは不可思議。ならば「前回」とて。いや、本来ならば没落したからこそ同じ轍を踏むなと助言を与える、または、しっかりと未来を託せる候補を見極めて一票を投ずるが。などとエラそうなことを言える身分にはないのだけれども。

仮にそこに批判を向けるならば、むしろ、もっと散財を後押ししてみては。求めずと相手が勝手に散財して下さる上に投票所で書く書かぬは本人の自由。金銭など差し出されてはかえって逆の心理も働きかねず。誰も見ておらぬ以上、両陣営から貰って別の名を記すこととて可能な訳で。

いや、確かにそこに動かされる情がないとは言わぬ。が、私財をなげうつに買収はそこまで悪か、というのが。

(令和5年4月20日/2776回)