右手

何かしら心配を「かけた」側にて本来は祝勝会というよりも。されど身内とあらば話は別。義母の催す祝宴に初めて知る子の日常。

娘の担任や物理を教える若き熱血漢なれど、息子の担任や化学を専門とするベテラン教師。親ガチャに同じ、担任を悔いとるようでは。居眠り中の突然の指名にもよどみなく回答を述べた生徒。思惑外れた担任や、君は寝ていたほうがいい、と。

避難訓練の際なども、本来は誘導すべき立場ながらこの年齢とあらば足手まといになりかねぬ、私のことは気にせずに、されど、私とて逃げ遅れる訳にはいかぬ、真っ先に逃げるから互いに落ち延びて校庭で会おう、との一言に級内は笑いの渦に包まれたとか。逆説が通じるは信頼の証。

そんな学級において進む研究テーマや、ガムテープはいかにきれいに剥がせるか。一見、無意味に見えることの中にこそ新たな発見があったりもするもので。さりとて、そんな指導要領から逸れた内容が許されてもいいものか。いや、それこそが狙い。国の研究指定校だそうで。

そう、選挙中の応援弁士。呼ぶ方も来る方も大物感の演出に余念なく。回りが騒ぎ立てるゆえ話題には上がれども候補当人の資質とは何ら。ましてや市議なんぞは露払いが如き扱いにて。やはり本人の訴えがいかに心を掴むか。

初陣時における「あの信号はオレがつけた、と自ら宣伝する時代ではない」との第一声が契機。以来、御自宅に招かれること少なからず。世に憚らずモノ申すKさん節を聞くのが愉しみの一つ。

好き嫌いに非ず。曲がりなりにも一国の総理たるもの一介の議員の応援に駆け付ける行為そのものが見直されて然るべき。ましてやあの一件以来、厳重な警備体制に要する費用に現場の負担等々。それこそが幹事長の役目。いや、そもそもに応援なくば当選せぬような候補者なんぞは、と手厳しく。

舞台は前回の衆院選。聴衆に紛れた一人が大声にて政権批判を繰り返し、スタッフが宥めんとすれども聞く耳持たずに余計に騒ぐは計画的。周囲も眉をひそめる中にあってピタリと止まりし妨害。たまたま隣りに居たんだ、とKさん。あんたの言う通りだ、と差し出した右手に相手が見せた一瞬の躊躇。握手を交わした時点で勝負あった、と語るKさんやあの漁師に重なり。

そして今回。沿道に手を振るは味方であって無視はありえず、「御手を振っての声援しっかり」と。それが家の外まで、いや、後追いとあらばよほど「熱狂的」な支援者に違いなく。下りて差し出す右手に応ずる相手。肩で息をする姿に「わざわざ、恐れ入る」と謝辞述べるに何か様子がヘンであり。音量大きい、と。いやいや、そのひと言を言う為に。

本人自ら下りて非礼を詫びた誠意、というか純粋な勘違いなれど、不作為の右手が生みし幸運。本来ならば憤慨されて然るべきも。右手に感謝。

(令和5年5月5日/2779回)