山男

社会人なりたての頃、画廊にて目にした作品に心奪われ。いつの日かこの作品が似合う邸宅に住まわん。その価格や通勤の途中に見かける外車の値段と同じだった、とか。

人生を振り返るにドヴォルザークの「ユモレスク」ほど似合う作品を知らず。波乱の人生、還暦迎える前夜の曲目はスメタナの我が祖国より「モルダウ」、ドヴォルザークの「新世界」。それも御当地を代表する名門オケの演奏とあらば、ヨハン・シュトラウスを演ずるウィーン・フィルが如く。

都心にあって昔ながらの情緒残りし荒木町に佇む「羅無櫓」の店主から暑中見舞ならぬ激励の自筆はがきが届いた。かつての山男、既に老境の域に達すれど自らも秋には大日岳を歩く、と。そう、懲りずに挑む夏山。

スタートは夜明け前の三時、波打ち際から目指すは遠目に見ゆる山頂。距離こそ六十七キロなれどひたすら上ること三千米。到達後は自由解散にて残るもよし、下山するもよし。山の天気は気まぐれにてゴールは保証せず。過去に五千人以上が挑み、成否は半々。まさに実力ばかりか「運」も試されるとあらば余計に挑んでみたくもなり。

作品の舞台は統治下の台湾。嘉南平原に派遣されし一人の若手技師が目にした光景。水こそ命、片道を半日かけての水汲み。途中に水桶からこぼれる水に叱られる息子。不毛の地に灌漑用の水路を敷かば。事務職と土木職の対立は今に始まりしものにあらず。莫大な予算を前に下りぬ承認。統治下といえど何もそこまで、と咎める相手に「海に国境があるか」と本人。

規模を半分にすれば工期も予算も縮減が可能、と迫られるに「二つの村の明暗が分かれては無意味」と妥協を許さず、「技術者を重用せぬ国に将来はない」と。静脈が如くに張り巡らされる用水路の延長、距離にして地球半周。海を渡り、壮大な計画に挑みし一人の土木技師を描いた作品。「パッテンライ!!南の島の水ものがたり」。

自然破壊の上に文明が成り立ちし過去に一瞥もせぬ保護派には与せぬも、広大な山林の木々を「あえて」伐採、パネル並べてこれこそが脱炭素だ、と言われても。ならば都市部はどうか。良好な景観形成を目的に規制されるは建ぺい率と容積率。つまりは敷地内における建物の面積や高さ等の制限下にあって、緩和されるに見込める需要と結び付く利益。んな圧力が無いとは言わぬ。

が、まずは問われる安全性。技術は日進月歩、最新の技術を用いれば十分に耐震性に優れた高層棟とて可能。それも周囲との一体的な整備、開発とあらば近隣への影響も少なく。緩和そのものに異は唱えぬし、その物理的な基準とて専門家の緻密な分析の結果なのだからイチャモンは付けぬ。

が、緩和を図らんとするに「安全」「景観」ならばまだしも、「環境」、いや「低炭素」などとされるに、さすがにこじつけが過ぎてはおるまいか。そもそもに、高層化を実現せんとするに多少なりとも負い目があって然るべきであって、それこそが理想とされるに。

(令和5年7月16日/2793回)