三欲

新庁舎に取材陣、とは世に珍しき一事にあらねども。俳句ならば取り合わせ、料理でいわばペアリング。新たな庁舎に無能な市議の対比は「映える」らしく、記者席に陣取るは。

醜態を晒すは市議会の恥とばかりに弄される防御策。こまめな小休憩、いや、それすらも間に合わぬ際は緊急と称してメモを届ければ云々と。んなことを、考える方も考えさせる方も。介護に同じ、優しさは時に人を堕落させ。残酷なようだが、全ては自己責任の範疇、放っておくに限る。

私など一言漏らさず聞く耳立てて、などと善人ぶらぬにせよ、叩けば埃出るのが人ってもんで。何せ三欲の一つ、寝落ちのバカ面は滑稽以外の何物でもないが、排泄に同じ生理現象、何が悪い、なんて厚顔は貫けず。

昨今なんぞは編集にて自由自在だから写真一枚あれば何とでも。昔ならば憤慨していたはずなれど、んなことにいちいち目くじらを立てては健康を損ねかねず。番組の視聴率や知らぬ、が、所詮はその程度、あの失笑に比べれば。

彼らとて獲物は選ばぬ、ならば私が生贄にでも、そんな時に限って。奇しくも敵の餌食となるは不器用な御仁、意外と好漢であったりもするもので。いや、それとて身から出た錆。犯した以上は自ら購うしかないのだけれども当人以上に批判浴びるは議会局、それも一兵卒の職員が対応に追われるとあらば何とも。

事業所との呼称は紛らわしくも。一般的にはそう呼ばれ。事務所の子供たちを一緒に連れて行くに不都合はありはせぬか、周囲に迷惑をかけてしまうのでは、と肩身狭き想いをさせてしまう世の中では。そう、さんままつりと聞いて喜び勇む子供たち一同にお越しいただいたものの、肝心の品が売切と知るに。落胆著しく、宥めるのに相当な苦労をされたとか。

かもしれぬ、との不安。医師に診断仰がば断定されて普通級には通えぬかもしれぬ。情緒の起伏に登校を拒否すること少なからず。気を向けさせんとすれども動かぬ子。そこに腐心する親の心はいかばかりか。募る精神的な重荷はいづれ虐待の要因にもならぬとも限らず。ともに疲弊する構図は介護現場に同じ。

従来は療育センターが窓口となれども状況に応じた事業所の紹介に留まり。事業所側とて「預かり」に軸を置くだけに「改善」を期待するは彼らの善意に負うところ大にして。ならば、と「相談」に特化したセンターが各区に整備されつつあり。

保護者の不安とて様々、相談といえどもその内容や多岐に渡り。仮に発達障害もしくは思しき症例にあっても乳幼児または低年齢時に適切な処置を講ずれば成長後は明らかに改善傾向が見られる、らしく。とすると、一日の大半を過ごす自宅においてもその行動特性に応じた接し方が会得できれば症状は軽減されるばかりか、親御の負担とて。

センターの真価が問われるはこれから。事業所の紹介程度であれば療育センターに変わらぬ。そこまで手を差し伸べてこそ。いや、そのへんの専門家というのがなかなか。

(令和5年12月11日/2822回)