父娘

流行にはとんと疎く、たまたま目にしたノリよきユニット。今どきの若者に知らぬものはない、と娘から聞いた。やはり親の面倒見るに頼りになるは娘。退屈しとる父の相手を、と乞われることしばしば。年内には必ず、と。

呼び鈴を鳴すに気配なく。一筆記した名刺を残せど、「相手」と約束をした以上は、再び。迎えて下さるは還暦を過ぎたる娘。大声で呼ぶに奥からのそりと顔を見せるはその人にて。正月を前に自ら神棚を手がける父や九七歳。

逃げはせぬゆえ転ばぬように、と告げるにしっかりとした足取りにて玄関まで。久々の対面に娘の一言や、どうぞ拝んでいって下さい。合掌するはたやすきことなれど、当人自ら仏と勘違いされぬとも限らず。

そう、年末に立ち寄りし鮨屋のカウンターにて見かけるは老年の一人客。年の頃は八十半ば、か。何も世辞にあらず、腹が減っていては尚更、純粋な心境の発露にて、「旨い」とつぶやかば。ここの鮨がそんなに旨いかね、私は五十年間、通い詰めるも大将のにぎりなんぞ。奥様の定食しか、と絡まれるに。

赤壁を前に単身渡りて呉の家臣ら相手に論陣はりし孔明が如く、とは大袈裟ながら初対面にあって立合いに負けるは恥と知るべし。んな空気を察してか、いや、こちらの客はいつぞやにどこぞのコースを超絶なスコアで回って以降、仲間から総スカン、今や一人で名門を回るのが人生の愉しみ、と大将に紹介されて。

スコアは兎も角も確かにその偏屈ぶりでは仲間とて。さもありなん、と頷くは容易なれど。いやいや、自らより格上の相手と一緒に回れるはむしろ光栄と思い知るべし、それしきのことでそっぽを向くなんぞはヘボだ、との一言が心を掴んだらしく、以降は。

が、老人は甘やかさぬに限る。こちとら「現役」にてヒマにあらず、続きは次回、奥様の定食とともに、と別れの挨拶をするに、いや、それでは大将の仕事がなくなるゆえ次回も「にぎり」を、と客人に見送られ。

んな時に限って、というのが世の常。大晦日の早朝に鳴る着信や支援者の一人。生後数ヶ月の孫が高熱、嘔吐と。病院に電話をすれどもいづれも拒まれ、との依頼に紹介するは地元の小児科が輪番制にて診察を担う小児急病センター。診察と申しても聴診器を当てて、あとは薬が処方される程度なれど、不思議とその後は。今回なども薬の服用後は平熱に戻り、事なきを得たそうで謝辞が寄せられ。

乳児とあらば泣く一方で症状の度合いが分からぬ。未知なる事態に遭遇するに気が動転するのも無理はなく、苦しむ子を前に失われる平常心。そんな相手とあらば応対側とて余計に注意を払わねばならず。専用の電話が繋がらぬ背景にはそんな事情も。ゆえに苛立ち募らせて待つ位ならばいっそそのまま現地に、というのが賢い判断。

救急の分野で期待が寄せられるは♯7119、医師や看護師等の専門家が介入することで救急車の必要性を判断、適正利用に効果あり、とされるも。救急である以上は、一秒でも早く、というのが通報側の心理な訳で。

(令和6年1月5日/2827回)