盲信

たまには顔を、との声受けて訪ねるに農作業の小休憩と重なり。茶に添えられるは韓国風の海苔巻きとたくあん。どうぞ手を付けて、と言われてほおばるに口に余韻残るは、にがみ。菜花ならぬ蕗の薹か、春だナ。

久々に同席したピアニストにぶつけるはかねての疑問。アルゲリッチを聴くべきか。往年は言わずもがなも、今や「それなり」の年齢となられ。老いて醜態を晒す位ならば絶頂期の記憶そのままに身を退く、というのが一般の感覚のはず。現役にこだわり続ける理由やいかに。というか、チケット代は当時と変わらず。その妥当性やいかに、というのが。

老いこそ否めぬも当人ならではの技巧は今も健在にて他では聴けぬ、ぜひ、「今」を聴くべし、と背中を押されるもそこに気づくだけの耳があるのだろうか、なんて。

地元の美術展を訪ねた際に耳にせし隣りの会話。これだけの作品がそろうのだから、こんな貸館の一間ならぬ専用の市民ギャラリーがあっても、と。確かにそれだけの作品群を生み出せる人材抱えるは当区位なもの、との自負心や分からんでもないが、我ら以外におるまい、となると。作品の価値を判断するはあくまでも。

わが傑作を市に、との申出。およそその手の話は純粋な善意のみとは限らず。役所側とてそれが当人の精魂込めた力作であることは否定せぬ、さりとて、その作品が人を集めるだけの価値を有するか、と問われれば。ましてや寄贈となると粗末には扱えぬ。立派な陳列棚に照明、湿度の管理と作品の解説を添えて諸々、ということでその内心や。

面と向かっていえぬは立場の違い、そこを察するが大人というものにあるまいか。相手の盲信とて手に負えぬ、が、それにも増していかなる作品であろうとも「貰い受けれぬ」との頑固な、いや、それが過ぎたる市の姿勢には伏線があって。

予算書をめくるに目に留まるはその関連。そう、あの時も。水没する収蔵品。収蔵庫を地下におくなんぞ、あるまじき市の瑕疵にて折角の寄贈の品々を何と心得る、云々と迫られれば。日夜、修復の作業に徹する彼らに罪なく、額の妥当性こそ問わぬまでもそこに計上されし予算額や二億を下らず。

それもあくまでも単年度の話であって、終わりが見えぬ。いや、仮に修復を終えたにせよ、それが日の目を見る可能性やいかほどか。それも贖罪の念や既に手がけた以上は後戻り出来ぬとの「しがらみ」によるものとすれば、この期に及んで、と別案が脳裏よぎるは私のみにあるまい。

いや、それがピカソならば世が放っておかぬ。地下の収蔵庫に放置されたままとはつまりはそういうことにて。市が頭を下げて貰い受けたものならばまだしも、向こうからの申出を受諾したものとて。生まば全ては過去のもの、あとは野となれ山となれ位の矜持があっても。

少なくとも貸した分は忘れ、借りた恩は終生忘れぬというのが。そりゃ金銭哲学か。

(令和6月3月15日/2841回)