風下

師走のまちのにぎわいに花を添えるは花屋、なんて、つまらん駄洒落。定番のシクラメンからシンピジウム、そして、赤と緑が対照的な。Mさん宅の縁側に見かけるはまさにその品種、隣のシクラメンとて立派なものなれど、それ以上に存在感を誇るはポインセチア。花好きな奥様が育て上げた三年ものが大輪の花を咲かせ。

戸別訪問に勝るものなく、これだけ回るに次の選挙は安泰、なんてのは妄想の類。所詮は気休め、自己満足か。万歩計など持ち合わせぬ、いや、スマホのアプリすら使いこなせぬゆえ正確な距離こそ知らぬも、終日を歩き続けるに日に十キロは下らぬ、はず。さりとて、所詮は「その程度」。

革靴とて歩くに適した軽量の一品を愛用しとるはずも身体の疲れやランの比になく。やはりランシューズってのはすごいんだナ。疲労が招くは免疫の低下、連夜の不摂生に寒さもたらす血行の不順と。感染症が流行するのも無理からぬ必然というか。負の要素が満載の冬場の健康管理。

疲労云々と泣き言申す位ならば何も徒歩を選ばすと。車、それも拡声器付きの車ならば一石三鳥、に見えるけど。いやいや、「流す」と「訪ねる」のではそもそもの趣旨が。ならば車で「訪ねる」はどうか。止める場所の確保に乗降に要する時間、それでいて次なる目的地までほんの数軒とあらば徒歩と然して変わらぬ、いや、むしろ徒歩の方が。のみならず、車窓とは違った景色、気づきがあるはずで。

角を曲がりて目にするは朝の清掃。沿道の方々が追われるは落葉拾い。寒空の下、老体に鞭打って。手入れ届かぬ街路樹を何とか、との声や少なからず。伐採するなんぞは言語道断、と「匿名」の苦情が寄せられたのも昔の話。鬱陶しくてかなわぬ、市がやらぬなら私自ら枯葉剤で、と気炎を上げるはTさん。そりゃ犯罪、いつぞやの報道でも目にしたでしょうに、と宥めれど、実際に御自宅前の一本が。

そりゃ車の衝突によるものだそうで。幸か不幸か北風吹くにそちらが「風下」となり。根の隆起のみならず、雨の日なんぞ傘すら通れぬ、担当自ら歩いてみよ、と手厳しくも当人の御子息は市の職員であり。市とて適正化の名の下に計画を立てて伐採に着手するも安からぬ予算を伴うに。信号で分かれる明暗。伐採後は苦情どころか満場一致ですこぶる好評、とか。失われる緑、というけれども残すべきはそこの緑になく。

街路樹然り、当時は自ら欲したはずの住環境も今となっては重荷に。急速に進展した都市化に押し寄せる高齢化の波。戻らぬ子ら、生じる空き家。空き家なる語彙にはどことなく寂れた感あり、昨今なんぞは居住の世代間循環、などと。住めば都と移り住んだものの、売るにも売れぬ土地と建物。事情が事情だけに相手から足下を見られるばかりか、土地に制約が課される地区協定が障壁の一つとなり。

自らもいつか来た道、親元離れた子に帰郷を望むは親のエゴか。離れていても互いに健康であれば。よいお年を。

(令和6年12月31日/2898回)