寒桜

客殿にてふるまわれる料理に人肌の燗酒、が最高に。檀家にあらねば長居は無用と知るも。まぁ正月くらいは、との住職の御厚意に逡巡なく。檀家衆が次々に訪れる中に目立つ上座を用意していただき、戸別訪問に勝る宣伝効果。

というよりもそれだけ空の御銚子が並べば逆効果だったかも。そう、コロナ以降は元旦に多摩川を走るのが恒例となり。すっかり出遅れるも何とか川崎駅まで。約二五キロを。

障害者の事業所にて繰り返される暴力。それは虐待にあるまいか、否、施設長が受けし被害。相手が体躯よき中三とあらば下手な大人よりも。警察沙汰にするに出来ぬはその特性によるものであって堪えるは本人を思えばこそ。

発達障害との診断結果が一次障害ならばその後の過程が生むは二次障害。知らされる現実を認めたくない親、支援級を拒む親の心境は分からなくもないが、それが当人にとっては逆に重圧だったりもするもので日々募る鬱憤。

癇癪恐れて腫物触るが如く接する親もいれば高圧的に従わせんとの親もいて、齟齬が招きくは負の連鎖。親子ともに疲弊する中に行きつく先は精神科。処方される薬はあくまでも症状を和らげるだけであって治すには。

ただでさえ繊細で複雑な精神状態を薬で制御しようというのだからその反動、副作用が無いほうがおかしく。過度な状態において薬に依存せざるを得ない状況はやむなしにせよ、そもそもの原因が日々の生活における精神面にあったのだから。根本的な改善を図らんとするに薬だけでは。

もう、これ以上は自宅での対応は困難、と相談を受けるは冒頭の施設長。数多くの症例を見てきた当人の判断や寝泊まり含む専門的な施設への入所。のみならず、そこから学校に通うことが必須。ひきこもりは改善に繋がらぬ、治癒のカギとなるのは運動と太陽だそうで。あくまでも当人の経験談。

そんな処方箋を渡されども施設のことなど親には分からぬ、手配も含めて、と頼まれるも施設側に余剰少なく狭き門。正攻法では困難と知る施設長が足を運ぶは児童相談所。そう、ここの手形あれば。が、応対の職員に鼻で笑われてしまったとか。

そりゃ特別な事情がない限り安易に手形は発行できぬことは百も承知。されど、親の依頼受けし施設長とて好んで親子の別離を望むものになく。今が限界、見過ごさば、との危機感に駆り立てられての。不足する施設に入れたくない、逆に体よく断ることが目的化して。

足りぬなら増設の計画を立てるとか他の代替を模索するとか。無理、とそこで思考が停止するなど。何よりも身体に青タン刻みし施設長が自ら訪ねた意味を考えよ。事情を察するにねぎらいの言葉一つあって然るべきで鼻で笑うなど。一事が万事、そこに泣く人少なからず。それこそが本市の福祉の悪評を生む元凶になっておりはせぬか。

後日、関係者間の会合にて、そんな話を報告するに、それは相談支援の範疇外ゆえ他に任せて、との風潮が大勢を占めたとか。いや、必死の親を前にこれ以上はサービスの対象外などと告げられるか。それ以上に他に任せて本人が救われるならば、というのが。あくまでも勝手な推測。

(令和7年1月5日/2899回)