山渓

「やまけい」と読み。まもなく創刊百年を迎える雑誌「山と渓谷」。文章も秀逸ながら何よりもあの写真に魅せられて山に挑みし御仁も少なからず。彼も読者かは知らぬ。が、行きつけの床屋の店主の趣味やキャンプに山歩き。

散髪時にそんな話題を提供して下さるのだけど、その山の頂上には砂浜があって、天空のビーチから見渡す大パノラマはまさに一見の価値あり。秋の紅葉もアリなれど、やはり新緑の季節こそイチオシ、ちなみに、日帰り可、と聞くに。中央道の須玉ICが最寄り、尾白沢渓谷が登山口となり。

山の第一歩は早いに限る、ましてや軽装のトレイルランナーともなれば尚更のこと。早朝の移動、木々に囲まれた山道を抜けて広がるは。花崗岩が風化した白砂が生みし不思議な景観はまさに大自然の神秘。太古より何億年もの悠久の歴史に人類が栄華を誇るはほんのわずか。何も原始的な生活に回帰せよ、とはいわぬまでも自然に対する畏敬の念だけは失わずに。

八ヶ岳に本市がかねて有する少年自然の家は小五の課外学習に利用されてきたものの、限界とか。ならば再整備を、と検討するに災害時の危険区域に該当。ってことは今までの説明がつかぬにあるまいか。のみならず、現地と本市を結ぶバス便の運転手が確保できぬ、というのが詰めの一手とされ。

当時、都市化の進行が著しき本市にあって林間学校というか、子供たちに自然とふれあう機会を、いや、相手方にあっても大歓迎、と好循環が生まれたはずも。当時は直営とされた運営も時代の波に抗えず。こちらが頼んだか、頼まれたか、向こうの公社が手を上げて下さり、今も指定管理者として。が、そんな両者の関係に暗雲。契約更新に「待った」をかけるはあの会派。公社の経営に疑義あり、と。

かつてゲレンデを埋めた客は今いずこ。閑古鳥鳴く町営スキー場の運営はおよそそんな法人であること往々にして。頼みの綱や町役場。町長自ら理事長とあらば。公社が手がけるはそこのみならず。債務の返済もしくは他の赤字を埋めるに本市からの収入が流用されるは「解せぬ」とのことらしく。

が、契約の不履行ではあるまいに。少なくとも本市が指定管理料を払い、規約通りの運営が図られている以上、そこに生じた利益をいかに活用しようともそれは本市の与り知らぬ話であって。本市からの収入減を失うは彼らには痛手なれど、本市とて彼らに見切り付けれども土地含む所有権はそのまま残る訳で。

そう、肝心な自然教室。これまでは行先は全校同じ、複数校が重なるに日程的な調整のみであったはずも。以降は行先を含め各校の意向を酌んだ上で実施。ついてはアウトソーシング手法だとか、民間事業者のノウハウを活用した手法を云々と微妙な表現に終始するも、つまりはそこも含めて民間に。

すると従来以上に生じる手間の費用は勿論、別途上乗せられるに。団体行動に集団生活の意義が薄れつつある今日。自然教室への価値観も様々。いや、仮に必要性を認めたとしても公費を投じて行う意義やいかに、なんて。もそっと別な解決策は無かったのだろうか、と。

(令和7年4月25日/2920回)