小人
若手ピアニストによる「展覧会の絵」を聴いた。大編成のオーケストラで演奏されるのはモーリス・ラヴェルによる編曲版にて原曲はピアノ独奏。それでも十分に。曲名の通り作曲家自身が友人の遺作展にて着想を得たとされ。
作品と作品の間、プロムナードと呼ばれる間奏曲の旋律がつとに有名なれど、絵を音楽で表現するは感受性に負うところ大にして。「キエフの大門」こそ終章に恥じぬ荘厳さ備えれども第一章「小人」は。人気の演目にて今年のサマーミューザにも。
閑話休題。かつては「放火」「殺人」「窃盗」にて事足りた犯罪も。それと同列に論ずるに不謹慎との批判あるやもしれぬ。手帳こそ「肢体」「知的」「精神」とされるも症名や三つで足りず。発達障害児の支援について質問を終えた。
期せずして子を抱えし親御の苦悩を察するに。医師の診断を仰ぐに仰げぬは恐怖心。うちの子に限って。子はかすがい、となるはずが。双方に募りし鬱憤は夫婦間の不和に留まらず。強度行動障害とあらば突発的な錯乱になす術なく。思春期を過ぎし子の暴力に親が抗えぬこととて。
家庭の養育はもはや限界、入所の施設を探さんとするも。突然の打診、それも一般人とあらば施設側とて警戒心を抱くは当然。されど、そこに児相こと児童相談所が仲介を果たさば、入所はぐっと近くなるとか。ならば、もそっと児相が積極的な介入を、と誰しもが思う。が、下すに下せぬ理由が彼らにも。
何せ施設側に余剰なく、事実上、受入は困難とされる中にあって、「要入所」などと判断下さば、そこに生じる責任。「要」と判断した以上は入所に向けて何かしらの対応が図られて然るべし、なんて。本来、当人の状況に応じて判断されるべきところ外的な要因が判断を狂わせ。
ならば、市内に限らず、市外はどうか。費用負担は居住市側ゆえ入所後に相手方に過度な負担は生じぬはず。が、難色を示されること往々。やはり受入枠に余剰なきはどこも同じ、に見えるけれども事情通に言わせれば。施設側に「空き」がないわけではない。他市からの受入を優先するあまり自市において新たな受入が困難となるに批判が寄せられないとも限らず。そんな意識が他市からの入所を妨げている、と。
入所枠、空き状況を開示せよ、とは言わぬし、そこに弾力的な運用があっても結構。県費が投入されている以上、県民が優先との言い分も否定はせぬ。が、国費とて投入されているのだから。居住地ならぬ状況に応じて可否が判断されてこそ真の福祉にあるまいか。そもそもに施設が不足する背景には減反に劣らぬあの大転換が。
施設に留め置くは彼らの為にならず、ノーマライゼーションなどといえば聞こえはいいけれども予算を削るに都合よき口実ともなり得る訳で。施設は悪、とのべつくまなしに否定するは道を誤らせかねず。真に必要な人に対してキチンと居場所を提供すること。プロパガンダにはご注意を。
(令和7年6月20日/2931回)
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