焼印
大した稼ぎにならぬ茶を教えるは辞めよ。幼少よりこの間、散々に食わせてもらったのだから、以後は私が。と親孝行のつもりが、老女の唯一つの生き甲斐を奪ったことに後で気づき。人は他人から何かしてもらうことと、他人に何かしてあげること、つまりは、人の役に立っていること、どちらが大切か考えるならば。
との述懐を目にするは。いまも黒板五郎の幻影を見かけることが、とのオビ。そう、「北の国から」の監督、倉本聰氏の自叙伝「破れ星、燃えた」。
その年齢ともなれば情報源はオールドメディアに限られ。いつぞやに見た番組にて紹介されし店を探しとるとか。調べて貰えぬか、とTさん。手がかりは「銀座」「どら焼き」。急がぬならば私が購入して届けるゆえ、と告げるに。いや、自ら、と。
聞かばその店はどら焼きに「焼印」を入れてくれるらしく。来年は米寿にて、それをみなに配るのだとか。そう、ゴルフでは快挙を果たせし主役が周囲をねぎらうが「マナー」。誰も祝ってくれぬ、などとこぼしとるようでは。それでこそ米寿、くれぐれも私の分を忘れぬよう、とスマホにて調べた店の情報を教え。
さて。ピアノ教室の先生宅に招かれて始まるはレッスンならぬ。雑談の途中に浮かびし疑問。曲に付されるあの単語。「ハ」だ、「ニ」だ、前に付されるカタカナはさておき、長調と短調の違いや何か、と聞かば。平たく言わば、暗きが短調、明るきは長調と。
ならば同一曲の楽章に長短が混在することは。ある、と先生。とするなら誰しもが知るあの名曲、ジャジャジャジャーン「運命」の第一楽章こそは長調、と自信げに返すに、否、短調と。明暗と動静は別物。あれは動なれど暗。音感の悪さをつくづく。やはり理屈は合わぬ。
そうそう、と手渡されしチケットは贔屓のピアニストのソロなれど、演目はベートーヴェンの交響曲。ピアノにて交響曲とはこれいかに。世に編曲の作品少なからず。編曲に挑むは原曲の価値を更に高めんが為。モーリス・ラヴェルのムソルグスキー然り、ラフマニノフのパガニーニ然り。さりとて、かの大曲の編曲を手がけるなどは。
当人にまつわる逸話少なからず。敬虔な信徒であることは疑念の余地なく。当時の教皇にして「あなたの音楽は常習犯を悔い改める為に用いられるべきだ。誰一人抗えぬ者はおらぬ」と言わしめた反面、その放埓な私生活は広く知られ。情事さなかに聞かれし会話や「分かるかな君、分別を働かせるなんて、それどころではないんだ」と、およそ敬虔な信徒とは。いや、そのへんがまた当人の魅力でもあり。
その演奏会に招かれるはかのベートーヴェン。53歳にして既に聴力を失いし彼がまなざし注ぐは12歳の少年。彼はやがて、その才能を認めるもよもや自らの作品を、とは。フランツ・リスト編曲のベートーヴェン交響曲。あの「フルスペック」をピアノ一つで表現せんとするに求められる技巧や。
そう、ぼちぼち「第九」、と物色するに目立つ完売。チケット争奪が年々激化しとる気が。
(令和7年10月5日/2952回)
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