逸翁

折角の誘いを断るに忍びず、了としたものの、その日「だけ」の雨予報に憂鬱な日々。安からぬ支出を伴うだけに中止の報でも来ぬものかと淡い期待を抱いていたのだけれども...。
今日はこんな空模様ゆえ途中の昼食代は私の負担で、との大御所ぶりに「ならばステーキでも」と隣人。そう、そんな時ほど遠慮しちゃイカン。が、そんな善意が通じてか雨上がり、残った風とて疲労癒すに十分で絶好の日和に悦に入りたいところだけど伸びぬ成績。風雨に寝不足、役所が如く出来ぬ理由を探してみるもさすがに「同伴者」って訳にも参らず...。
腕が腕にて球は選らばぬも種目に私なりの敬意を表して初回のみ用意する新品球。紛失すればさっさと別な使い古しを使用するのだけれどもこれがどうして森に入ろうが池に落ちようが遭難せぬ上に芝生上でも「右に」流れて。第四十一代就任祝なんて文字とともに似顔絵が描かれているもんだから顔を上にコノヤローと振ればチョロチョロと。原因はこの球だナ、失礼。
そう、詳しい経緯は省くが、少し前に妙齢の女性と観劇を御一緒させていただいた。些か自慢めいた口ぶりだが、以前も別な方に誘っていただいて...まぁそんな話はどーでもいいのだけれども日に数回の公演が大入完売ばかりかあれだけ熱狂的な支持者を獲得するのだからその戦略たるや。名と功績位は知り得るもいかにしてその境地に辿り着いたか知るは生きる糧になる訳で早速に「逸翁自叙伝」を読んだ。「逸翁」とは当人の雅号。自伝ってんだから自らに都合よく描かれているにせよ今日を見れば凡人には到底かなわぬその端倪すべからざる才能は誰しもが認めるところ。
当人の偉人たる所以の一つは劇団のみならず荒野に鉄道を敷設して苦節数十年、後発ながらも他の私鉄の追随を許さぬ確固たる地位に到らしめた手腕にある訳で、今日でこそ沿線開発と魅力向上などといわれるけど先駆者はやはりこの御仁ではなかろうか。当人曰く「鉄道といふが如き種類の事業は、眼前に必要が差迫つて来て、直ちに敷設せよといふが如く、足元から火の出るやうに建設すべきものでない、時勢を達観し其将来の必要に」と。
その慧眼達見も然ることながら秀でた文才は自ら文学少年と自称する少年時代の賜物か。天賦の才なんてのはほんのわずかで文才を磨くに経験は欠かせず、そんな同氏の興行論が秀逸で「興行というものは舞台の上の役者の芸を見ていると失敗する。この芝居が面白いか、当るか当らぬかは、二階の一番奥のお客様の様子をジッと見ていると、間違いのない結論が出て来るものだ。あのお客様たちがほんとうの芝居好きで、彼等が他を顧みている時は、必ず損だよ」と本人の談。
さて、地元のM平どんから寄席のチケットが届いた。御当地では今年も芸術の祭典アルテリッカしんゆりが開催中。いづれも好評と聞くも日時折り合わず、仕事帰りに映画「ゴーギャン タヒチ、楽園への旅」を見た。そちらは断片的な知識しか持ち合わせておらんもんだからこれを機に西洋美術史を深掘りしようかと久々に没頭しとるんだけど奥深く新たな発見が少なくない。
(平成30年5月5日/2427回)